◎茹でる

034 2004/06/14

 茹でる…(1)熱湯で煮る。「卵を―・でる」(2)体の痛いところを湯にひたす。

 友人と飲んでいた時の事である。
 ある会社の中にある、ある部署に所属している、ある社員(仮にAと定義する)の趣味の話しになった。まぁそれほど風変わりな趣味ではないだろうと聞き流しモードで聞いていた。が、一瞬にして私の耳がその友人の言葉に集中してしまった。
 友人:「Aの趣味は”茹でる”だ。」
 如月:「あの”茹でる”であるか?」
 友人:「そうである。麺を”茹でる”の”茹でる”である。」
 私の脳内にある、演劇場は一気に開始のベルが鳴り響き、緞帳を上げ始めた。


 Aはそわそわしている。腕時計の針は17:57を示していた。18:00になれば終業のベルが鳴り会社から解放されて自宅に戻れる。
 (あと2分…)
 (早く茹でなければ!昨日デパ地下でやっと買えたんだフランス産のボンジョレ麺を!)
 そうAの頭の中には、麺を茹でる事でいっぱいなのである。早く帰って茹でたいのである。茹でたくて茹でたくてしょうがないのである。
 多分今Aに突撃インタビューで、「なんで今そんなに麺を茹でたいのですか?」と聞けばAは、こう即座に答えるだろう。

「そこに麺があるから」と。

(あと、、、5、4、3、2、1、ゼ…)
 き〜んこ〜んか〜んこ〜んき〜んか〜んこ〜ん。Aはそそくさと荷物をまとめる。上司は「今日は仕事がかなりあるから残りたまえ」と呼び止めようと声をかける瞬間、Aは血走った目で「お先に失礼します!!!」。鼻息も荒く少し体が震えていたかもしれない。上司は何か言おうと口を開きかけたがAはさっさと上司に背中を向けズンズンと歩いていく。

「ゆでゆで〜ゆでゆで〜。」
歩きながらAは今日茹でる麺に思いを馳せていた。
「ゆでゆで〜ぷぷぷ」
 何が面白いのか。最初は小声で「ゆでゆで〜」とボソボソ言っていたのだが自宅が近づくにつれ声がだんだん大きくなる。明らかに興奮している。
「ゆでゆで〜ゆでゆで〜ゆでゆでったらゆでゆで〜♪!♪!♪!」

もうやばい!手をぶんぶん振りながら、唾をどばどば飛ばしながら、鼻息は強風の如く、どんどん荒くなっていく。茹でる場所(自宅)に近くなるとさらにヒートアップ!!もう鼻歌程度ではない。明らかにカラオケで熱唱しているかのようなそんな声の大きさだ。

「ゆ・で・ゆ・で・ゆでゆでゆでゆで。。ゆで〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!いやっほいw」
 鍵を回す手が震える、歓喜のために。もうAの頭の中ではエントロピーは増加しアドネラリンはどばどばと出て、興奮と快感が占領している。なぜならば麺を茹でられるから。もうゆでゆで〜なのだ。楽しくて楽しくて仕方がないのだ。常人ではないのだAは。

 やっとこさ鍵を開け自宅に入り着替えも手洗いもうがいもそこそこに彼は大鍋を用意し、水を並々と注ぎ(しかも水道水)火にかける。沸騰する時を麺を片手に持ちしかも投入ポーズまで決めて今か今かと待ちわびながら。しかし微動だにしない、その投入ポーズに酔いしれる事13分。やっと水は沸騰しそろそろ麺を入れられる瞬間がやってきた。が、Aは
「まだだ、まだ早い。もう少し、もうすこ、、、し、、、、今だ!!!それぇ〜!!」
勢いよく麺を鍋にぶちこむ!しなしなと堅く棒状だった麺が変化していく。Aは恍惚の眼差しでその現象を見守っている。やおら麺を掻き混ぜ始めた。お馴染みのあの掛け声と共に。
「ゆでぇ〜ゆでぇ〜。ほぉ〜ら、柔らかくなりまちたね〜。う〜んいいでちゅねぇ〜♪」
掛け声と共に、腰もスイングスイング。もう端から見てたら何の踊りかなんて解らない。
「ゆ・で・ゆ・で・ゆでゆでゆでゆで、ぐる〜んぐる〜ん♪」
もうかなりどうかしちゃってる。目もイッている。今Aの腕を誰かが掴んだらきっと麺を混ぜているあの菜箸で刺されるだろう、間違いない!

 そしてアルデンテになった頃、Aはザッと麺を鍋からあげ
「う〜ん、良い感じwww」と一言。麺を舐めるように見続けたあと、興味が失せたが如くに生ゴミの待つ三角コーナーへポイッ。そして新たな棒状の麺をガッと左手に持ち、また投入するタイミングを計っている。あのおぞましい掛け声と共に。
「ゆでゆでゆで♪私の子供〜ゆで子にゆで雄〜今大人にしてあげるねぇ〜ゆでゆで〜♪」
 そうしてAの茹でる作業は深夜へと続いてゆくのであった。

 おっと言い忘れた。友人はAについてこうも言っていた。
「彼はスパゲッティーを作って人に食べさせる事が好きなんだよ。」と。

 あら、茹でるだけじゃないのね?ま、当り前か(苦笑)

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