◎生姜焼き伝説

075 2004/09/19

 私が病院に入院していた頃、その病院の敷地内に喫茶店があった。名前は忘れたが確か…さど屋とかほし屋とかもやもやとか、そんなんだった気がする。>もやもやって何だ(苦笑)

 そこのマスターは完璧な白髪だった。年齢は70を越えていたと思う。しかし腰は曲がっておらず、年寄り臭さは髪の毛の色だけだった。つねに腕まくりし、サスペンダーを使っていて、ちょっと小粋な感じだった。だけどあまり口を開かないタイプ。そう言えば煙草を吸っていたが普通の煙草の吸い口に何か筒状のものをつけて吸っていた。

 病院食はお世辞にも美味いと言えず、成長期だった私は常に空腹だった。好き嫌いが激しく食べ残していたのも原因だったと思う。自業自得と言う奴だ。
 しかしそこの店は病院食と打って変わって美味であった(まぁ、売り物だから当たり前なのだが)。味は濃いしご飯も大盛り。私と悪友はよく看護婦さんの目を盗んではそこの店に通い詰めた。

 メニューは色々あったのだが、私にとっては最高のメニューが3品あった。まずは焼き蕎麦。傾けると油がだらーっと零れる。そしてテラテラとテカっていた。しかしぜんぜん重くなく不思議と胃がもたれない。次に生姜焼き定食。醤油ベースのしっかりした濃い味なのに後を引かない。ワンコインで食欲も満足感も満たしてくれる。そして最後はコーヒー。格別にうまかった。豆を碾いてからサイフォン(電気ではなくアルコールランプを使うタイプ)で入れるから中学生だった私は視覚でも楽しめたしコーヒーの魅惑な香りで嗅覚も楽しめた。

 内装は古臭く狭かった。テーブル席が1つ。2人用。座敷が4人用1つ。2人用1つ。カウンターには2人座れるくらいの広さ。マスターが一人で切り盛りするにはちょうど良かったのかもしれない。ただ文句を一つ付けるなら電気が異様に弱かった。ちょっとだけ陰気臭い感じがした。ま、美味いものを食えた私にはどうでも良かったが。
 それと同時にスリルもあった。何故ならその店は病院の入り口付近であったしバス停も目の前にあったからだ。看護婦さんに見つかってしまう恐怖。でも食いたい。その板挟みではらはらどきどきしながら良く食べに行ったものだ(病院にいたので外食は禁止)。その頃からかな?自分の身をはらはらどきどきさせるような状況に追い込んで楽しむ事が好きという性分を知ったのは。内緒の事実だ。誰にも言わないでくれ。>もう言ってるじゃん(苦笑)

 何回か話をするうちに、マスターは私がいた病院の元患者だと話してくれた。さらに病院の過去の話もしてくれた。昔は木造だったとか、軍人病院だったとか。病院の過去に興味があった私にとっては、最高の語り部であり最高の料理人であった。
 今でも忘れられないのは生姜焼き定食の生姜焼きのタレの味。今までいろんな店で生姜焼きを食べ続けてきたが、どこに行ってもその店の味に近い味を味わう事が出来なかった。私はその店に行く度、毎回毎回生姜焼きを頼んだ。時にご飯を生姜焼きのタレが残ってる皿に乗せてまぜて食った。なんとお下品な食べ方。まぁ若かったと言う事でお許しあれ。

 高校に上がったある日、その店のマスターが亡くなったと噂を聞いた。私は、まぁ嘘だろうって思いながら、久し振りに顔を出しに行った。
 そこにはいつものマスターがいなく、マスターの息子と嫁さんと名乗る人物が店を運営していた。どうやら噂は本当だったらしい。少し悲しかったが、たいして親しい付き合いではなかったし、何よりも食い気のみでその店に行ったし。>なんと薄情な私だろう(反省)。
 とりあえず何か食べたかった。なので「焼き蕎麦」と「生姜焼き定食」と「コーヒー」を頼んでみた。私の中ではこのメニューが、この店における黄金三等率であった。つまり素晴らしい食事だ。>いや、食い過ぎだろう(苦笑)

 だが、出された料理を見て、一瞬にして、血の気が引いた。焼き蕎麦がテカっていない。生姜焼きのタレの色が異様に薄い。コーヒーの色も…。気を取り直して食してみた。味は見た目の予想を裏切らなかった。薄いのである。しかも出来合いである事は明白であった。いかにマスターが丁寧に料理を作りお客に出していたのかを改めて知った。
 きっとマスターに頼まれ息子夫婦はその店を続けたのかもしれない。だってどう見ても素人料理…。だがまぁ店を続けた心意気だけは買っておいた。>何様のつもりだ俺よ(苦笑)

 それから2ヶ月後…その店は閉店となった。仕方が無い事である。あの店はあのマスターで成り立っていたのだから。

 私はそれ以来、あのマスターの作った生姜焼きが私の中では最高の伝説の味にになった。今も尚鮮明に思い出すあの味あのコクあの深み…。しかし一度だってその味に近い生姜焼きを私は今まで食べられずにいる。
 いや、もしかしたら出会っていたのかもしれないな。ただ、認めたくなかっただけかもしれない。私の学生時代を彩った唯一、友達との外食経験であったし、唯一、息苦しかった病院生活を忘れさせてくれた大切な記憶だったから。

 しかしもう一度だけ。
 そうもう一度だけ食べたいものである。あの悪友とあのマスターのいる店で。
 あのテカった焼き蕎麦と濃い味の生姜焼きとゆっくりとサイフォンで作ったコーヒーを。

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