◎すれ違い香る、雨 1万HITお題雑文

092 2004/11/25



 ◆奥田 具樹様よりお題提供
 :題  名「すれ違い香る、雨」
 :書き出し「懐かしい、香りがした。」
 :途  中「雨あがりの風で香り立つ、このどこか懐かしい空気が、
       現実を穏やかに突きつけてくる。」
 :締  め「だから、この季節の雨は、好きになれないんだ。」


 懐かしい、香りがした。奈々子の居るはずも無い、この都会の真ん中で。
 その匂いは奈々子が使っていた、ブルガリのプールファム。あれから5年か…。
 今日は20歳の頃体験した不思議で切なく少し情けないお話をしましょうか。

 当時、私には良子と言う彼女がいた。
 学生の頃からの付き合いでいつ結婚してもおかしくないほど深く深く付き合っていた。しかしお互い仕事を持っていたため会えない日々がかなり長い間、続いた。そしてまるで昼ドラのような展開。些細な喧嘩が何度も続き、良子も私も疲れ、5年付き合っていた日々はあっけなく「さよなら」の一言で終わってしまった。
 私は酷く落ち込んだ。将来絶対一緒になろうと誓った日々が何度も頭の中を駆け巡った。

 私は独り、湘南の海を眺めていた。
 いい加減吹っ切らねば、前に進めないと思っていたから。海を見詰め良子への思いを深く意識の奥へと追い遣ろうとしていた。少し雨が降っていたかもしれない。
 そんな時、奈々子と私は出会った。
 私は海を見詰めたままただひたすら、前へ進めと念じていた。するとどこからか優しく包むような匂いが流れてきた。私は匂いが流れてくる方に目をやった。すると白いワンピースに身を包んで、鍔広の白い麦藁帽子をかぶった女性が目に付いた。
 彼女は先刻の私と同じように海を見詰めていた。
 肌は陶器の様に白く、髪は腰まで伸び、色は漆黒の夜の海を思わせるようだった。顔でみる年齢は、およそ26〜28くらいか。
 私は声を掛けてみた。生憎の雨ですね。と。彼女はただ視線を私に合わせた。そして一言、そうね。と小さな声で返してきた。声はどこか寂しげで、でも私に興味を抱かせるには充分過ぎるほど優しく美しい声だった。

 どうしても彼女の事を知りたいと思った。なんだか妖しい術にはまったかのように。
 思い付く質問をゆっくりと私は彼女に投げ掛けた。名前や地元の人間かなど。しかし返ってきた答えは名前だけだった。これも口数少なに一言「奈々子」と。
 ああ、これは声を掛けない方が良かったのかな?と私は思った。もしかしたら私の様に訳ありなのかもしれない。そう思い立ち去ろうとした時、奈々子は言った。
 「どうしてあんなに海を悲しい目で見ていたの?」

 私の足は止まった。まさか奈々子から声が掛かるとは思っていなかったから。
 私は、「長年連れ添った彼女と別れたから独り海を見て清算しようと…」少し口篭もりながら話した。奈々子は「そう…」と一言だけ返ってきた。私は奈々子がなんで悲しい目で海を見ていたのか聞きたくて口を開きかけた瞬間「この海で死にました」と奈々子はぼそっと言った。
 私は、なんて人に声を掛けてしまったのだろうと後悔した。彼氏の死を喪に服し、悲しんでいる女性に声を掛けるなんて…我ながらなんて考え無しな奴なんだと。

 奈々子は続けた。
 「こんなに冷たい海で…どうしてちゃんと手を繋いでいなかったの?どうしてどうして…
  悔やんでいるわ。いつもいつも…いつも。」

 そう言いながら奈々子は泣き崩れて行った。私はすぐに駆け寄り彼女の肩を抱いた。手から伝わってきたのは体温よりも冷たい風と雨に晒された冷えた冷たさだった。

 何時の間にか雨は上がっていた。雨あがりの風で香り立つ、このどこか懐かしい湿った空気が、奈々子を抱きしめ良子を忘れようとしている現実を穏やかに突きつけてくる。
 でも今は兎に角、泣き崩れている奈々子を支えてやりたかった。

 そして良子への気持ちを清算する事など頭から消えていた。
 今、奈々子は過去の痛みと向き合い過去の気持ちを整理しようとしているその場で、来ていた皮ジャンを奈々子に着せ近くにあったベンチに腰を下ろさせる事しかできなかった。
 抱き寄せた瞬間、最初に漂ってきた匂いよりかは少し落ち着いた感じだがそれが香水の匂いだと改めて知った。本当に気持ちも体も包まれるような、どこか人間離れしたような抱擁感も感じる香りだった。
 私は奈々子をその場に残し急いで自動販売機を探し、熱い缶コーヒーを買いに行った。奈々子に缶コーヒーを与え、静かに奈々子の手を包むように握った。落ち着いてきたのか、ぽつりぽつりと話し出した。

 「出会いは友人を通してだったの」
 「初めてキスしたのはこの海だったの」
 「お互いサーフィンが趣味だったわ」
 「喧嘩してもいつも彼が折れてくれたの」
 「料理を失敗しても文句一つ言わず食べてくれた」
 「急に寂しくなって夜中彼の家に行ったの」
 「仕事で会えない日が続いて」
 「私はもしかしてと浮気を疑っていたわ」
 「本当はそんな事無かったのに…」
 「でも寂しさに負けてつい…言ってしまったわ」
 「そしてまた喧嘩をしたの。」
 「また一緒にこの海でサーフィンしたいと願ったの」
 「久し振りに海で会ったの」
 「私も急いで海に入って行った」
 「そして海中でキスをしたの」
 「海面に出て、彼は始めて『結婚しよう』と言ってくれたわ」
 「そしたらその時…来るはずも無い大きな波が私達を…」

 ここで奈々子は唇を強く強く噛み締めて肩を震わせた。私は今まで以上に奈々子を抱きしめた。何時の間にか奈々子の顔は私の胸に。そして先ほどまで明るく匂っていた香りが、何時の間にか、ムスクのような匂いに変って行った。

 「私達を飲み込んだの」
 「私は必死で彼の手を掴もうとしたわ!」
 「あの人の手を掴もうとしたのよ…」
 「でも……掴めなかった」
 「それきり、二度と彼に会う事はできなかった…」
 「そして二人は永遠に離れ離れになってしまったの」

 奈々子は大きく鳴咽混じりに泣き出した。私は抱きしめる事しかできなかった。そして私も知らぬ間に泣いていた。奈々子と一緒にただ泣いていた。きっと一緒に泣きたかったのかもしれない。良子も同じように寂しい思いをさせていたのではないかと改めて思えたから。

 それから小一時間、奈々子はしゃくりあげるように泣き、だんだん静かになっていった。そして、そっと私の胸から奈々子は離れた。まだ目は少し腫れてはいるがそれでも奈々子の顔は美しかった。それは涙と言う化粧がさらに奈々子を美しくしたからだろう。

 私は何時の間にか奈々子に惹かれていた。そしてそのままキスを…長い間、二人は唇を重ねていた。そしてそっと二人は唇を離し強く抱きしめた。ムスクの様な香りと奈々子の体温をしっかりと私は感じていた。

 ふいに奈々子は言った。
 「こんな重い話しを聞いてくれてありがとう。貴方だけだった、聞いてくれたのは。
  大丈夫。貴方ならきっと幸せをこれから先、掴めるわ。…聞いてくれてありがとう。」
 急にそんな事を言われ私は面食らった。私の気持ちは今や、奈々子に向いていたからだ。
 「な、なにを…。私は奈々子さんを−−−−−−−−−−−

 その時、海岸には似つかわしくない突風が私を襲った。砂埃が舞い、私は目を開けていられなかった。そしてまた大粒の雨が降ってきた。私は急いで目を拭き、奈々子を雨の当たらない所へ連れて行こうと思った。そして肩を掴む。。。。。。。。
 え?
 さっきまで傍に居た奈々子が居ないのである。手は空を切ってしまった。座っていた場所の回りには身を隠せる場所も無い。ましてや私がしっかりと抱きしめていた。なのに。私はとりあえず奈々子の名を呼びながら立ち上がった。すると今まで奈々子が座っていた場所に一輪の花が落ちていた。そして、今まで強く強く香っていた香りが嘘の様に消えていた。ただ私の胸に奈々子が顔を埋めていた部分からは、仄かに香っていた。

 落ちていた花は、撫子の花だった。
 その花を握り締めながら私はとりあえずベンチが見える海の家の軒下に入った。勿論、夏ではないので店は閉まっている。私は撫子の花とベンチをかわるがわる見ながら、奈々子の名前を叫んでいた。

 すると知らない男が駆け寄ってきて「今、奈々子と叫んでいませんでしたか?」と尋ねてきた。私はとりあえずもしかしたら奈々子を知っている人なのかなと思い、今までの話しを全部した。するとその男性は大粒の涙を落としながら「まだ成仏していなかったのか…。まだ探しているのか、俺の事を」と言った。私はびっくりして腰を抜かしてしまった。
 奈々子の話していた事は…つまり彼が死んだのではなく自分が死んだ話を私にしていたのか…。私は幽霊と泣き、幽霊とキスを交し、幽霊を抱きしめていたのか…。呆然としている私に彼は、「その匂い」と言い出した。私は「え?」と聞き返すと、「君から香っているその香水の匂いは奈々子が一番好きな香りなんだよ…」と教えてくれた。

 その時始めて、その香水の名前がブルガリのプールファムだと知った。

 私は彼の話しを聞き始めた時はとても怖いものに思えた。でも奈々子と出会って良子の事を何時の間にか忘れ、新たな一歩を歩ませてくれていたのかもしれないと思えた。奈々子はきっと海で恨みがましい事を言ってる私を見つけて応援してくれたのかもしれない。

 本当に優しい人だと私は思った。
 ただとても遣る瀬無かったのは…遣る瀬無かったのは…奈々子が幽霊でなく本当の人であったらなら…。あの目で癒されてあの抱擁で癒されてあの香水の匂いで癒されて…など、勝手に素敵な毎日を想像してしまった事にある。
 せっかく素敵な思い出のはずなのにそんな不埒な思いの記憶も一緒に呼び出されてしまうから、だから、この季節の雨は、少しだけ好きになれないんだ。

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