◎固茹で卵的湯辛来飯(上)

111 2005/03/06

 男は正午になる前の四半刻(30分)の時に1軒の古びた店の前に現れた。
 その店は古くから正午の四半刻前に開店するのが定説であった。

 男は何度も腕時計を見ては、舌打ちばかりしている。それだけ腹が空いたのか、それとも殺しの依頼を持ちかけて来た依頼者が約束の時間通りに現れていないのか。解らない。ただ解るのはその男がイライラしていると言う事だけだ。

 男の風体はこうだ。まだ時期は冬なのに、半袖のTシャツを着てその上から薄いシャツを羽織っいた。そしてズボンも夏用のズボンを履いている。全身、黒色で統一されている。
 その出で立ちは古びた店には似つかわしくなかった。さらに左手にはスポーツタオルを。右手の方は固く何かを握り締めている。それは鈍く銀色に輝いていた。もしかしたらナイフかもしれない。しかし遠目からでは残念な事にそれが何なのかさえ全く解らない。
 いかがわしいそんな風体だった。ただ鬼気迫る気配だけが男の回りに漂っている。

 古びた店の中から黒い頭巾を被った優男が現れる。その優男は店の前で仁王立ちする男に「お待たせしました。入れますよ。」そう促した。男は何も言わず店内に足を踏み入れた。

 店内には異国の香辛料の香りがむせ返っていた。そこには店員と料理人だけしかいない。当たり前だ。その男が最初の客らしいのだから。男は店内に誰もいないことに満足したのか少し歩みを緩めカウンターの一番奥の席を陣取った。もしかしたら標的はその店の者か。

 男はおもむろに、置いてあった黄色のメニュー表に手を伸ばした。しかし進む手を一端、引っ込める。優男が氷の入った水を運んできたからだ。もしや、殺しが始まるのか?しかし何事もなく優男はその男の下から立ち去った。まだ決行の時じゃないらしい。そして改めて男は黄色のメニュー表を取る。そして一気に開く。それを机の上に置き左手に握り締めた、スポーツタオルを開いている席の背もたれに。右手から銀色の物体は手放さない。よほど、大事なものらしい。しかしその銀色の様な物が棒状である事がやっと解った。さらに先端が少し丸く薄く広がっているのが解る。

 男は顎をさすりながらメニュー表の隅々まで目を光らせる。もしかしたら本当はその表に今回の殺しの依頼の暗号が隠されているのかもしれない。しかしそれは推測でしかない。

 男はおもむろに優男を呼び出し、こう告げた。
「豚米大盛り帆立鶏腿肉豚ばら肉塩漬け燻製四」
 一気に言い切る。しかも一点の迷いもなく一回も噛む事なく。芸術的な雰囲気があった。
 男はそれだけ慣れているのだ。しかも、しっかりとした口調。だが優男は臆せずそれを、同じように復唱し、厨房の大男達に伝聞した。しかしなんと感情のない告げ方なんだろう。まるで警察、いや軍事機密施設で上官が歩兵に命令している、そんな感じだ。そして、驚愕すべき点はこれが、初めてこの男が口にした言葉。男は告げた後、何事もなかったように、また黙々と沈黙を守りながらメニュー表を悔いるように見ていた。
 まるで今頼んだ自分の行為を改めて、確認するかのように。

 しばらくすると店内により一層香辛料の匂いが満ち始めた。男は口元を押さえた。静かに料理人の姿を見詰める。どう見てもただの店なのに、男は頼んだ料理に毒が盛られるのではないかと心配して見詰めているようにも感じる。そして右手にもった銀色の物体をさらに、握り込んだ。それはまるで、麻薬が切れて禁断症状が起きたように、震えながら。

 先ほどよりも一層香辛料の匂いがきつくなった瞬間、カウンターと一体になっている厨房から湯気が強く強く立ち上る。男は思う。(そろそろか…)そう思いながら今までだらけて座っていた姿勢から、背筋を伸ばし両腕を机の上に置き、両手の間にぽっかりと何もない空間を作り出した。多分そこに、先ほど注文したブツが置かれるのであろう。しかし男は今まで通り黙っている。そして目を閉じる。まるで匂いを体全体で食しているかのように。

 程なくしてそれはきた。香辛料の強い芳香と熱い湯気を立ち上らせて。黒い大きな丼と、大盛りの米が盛られた皿男の両手の間の空間にすっぽりと収まる。計算していたのである。

 男はすかさず何時の間にか空になったグラスを、ブツを持ってきた優男に突き出す。水を要求したのだ。優男は無言でグラスを受け取り、新たな氷の入った水を持ってきた。男は、左手側の方にそっとグラスを置いた。それが定位置であるが如くに。

 男は2度、大きくその丼の上で深呼吸をした。鼻から口にへ香りが進む、そして鼻の穴を通った香りは脳へ直撃する。男は震えた。大いに震えた。まるで初めて抱いた女の残り香を楽しむ様に。そして、一気に右手に携えていた銀色の物体を、丼の中へ差し込む。

 そうそれは匙。現代的に言えばスプーンと呼ばれる代物だった。

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