◎固茹で卵的湯辛来飯(下)

112 2005/03/06

 男は精密機械のように丼に8割注がれている汁を口に運び胃に押し流す。刺激が否応なく舌と喉を爆裂させた。男は痛みをこらえ何度も何度も何度も運ぶ。インドの修行僧が行う、苦行のように。
 噴出す汗。だが気にもせず何度も汁を口に運ぶ。汁が体に入る度に発汗は強くなる。
 たぶん20回ほど口に運んだだろうか。その手を止めて、左手はグラスを持ち一口だけ、口に流し込む。辛さを収めたい。がしかし味を薄めたくない。そんな思いを込めた一口。
 そして今度は、豚ばら肉塩漬け燻製を、その汁の中でスプーンの背を使って潰し始めた。豚ばら肉塩漬け燻製の香ばしい香りが汁の中で華麗にクロールしていく。香りに一層の深みと味の深みを追加させる。そして気が済んだのか、そのまま用済みとでも言う様に口に放り込んだ。良く咀嚼する。唾液は豚ばら肉塩漬け燻製と溶け合い芳醇な燻製の匂いと柔らかな肉本来の旨味を口の中で広げて行く。
 男の手は止まらない。次の味を求める様に、人参とじゃが芋を親の敵の様にスプーンで、裁断し次々とブラックホールを思わせるその口に放り込み飲み込んで行く。それはあたかも最初からその汁の中に存在してはいけないと訴えているかのようだ。
 その二つの脇役を征し、忘れ去れたかのように置き去りにされていた米の皿を掴む。一口米を口にいれる。そして汁。米、汁、米、汁、米汁米汁こめしるこめしるしるしるこめ…。もうこの男に食べる順番など無意味かもしれない。そして気付けはすでに砂漠とかした米の皿が左側で疲れ果てていた。
 そして男は怯えて汁の中に隠れている帆立を見つけ出す。もう目は血走っている。殺人鬼さながらの様子だ。帆立の紐を引き千切り咀嚼。濃厚な海のエキスは、強い香辛料で、焼け爛れた舌と口内を潤す。そうまるで口を休憩させているとでも言うように。思う存分咀嚼しそして貝柱と卵巣を魔界の入り口な口に投げ入れる。男はそのまま咀嚼し空気を口から入れ鼻から出してみた。えもいわれぬ最高の匂い。香辛料と海のエキスの混然一体となる最高のハーモニー。どんなに名奏者や名指揮者が出張ってきても、奏でる事が出来ない味の楽曲。
 そのハーモニーを堪能したかと思いきや、今度はまたあの雲泥のような汁にスプーンが、舞う。そして可憐な弧を描き、口に滑り込む。何度も何度も。麻薬が切れたジャンキーが、麻薬を手に入れ我武者羅に打ち込む様に。そしてやっと丼の底が薄っすらと見える頃、鶏の太ももが現れた。男はきっと好物なのであろう。それを最後まで取って置くと言う事が男の食の性癖を物語っているのだ。

 だがしかし男は手を止めた。そう殺しの依頼を思い出したのかもしれない。まだ店内には他の客が入っていない。一端スプーンをおいて、汗で顔がダラダラになったところを、持参したスポーツでタオルで綺麗に拭いた。丼が運ばれてからまだ20分しか経っていない。
 男はまたスプーンを持ち、丼と言う名の戦場に赴いた。男と言う生き物には、生きられる場所が生まれながらにして決められていると言う。そしてこの男はこの丼の中の戦場がそれなのかもしれない。

 鶏の太ももを掬い上げた瞬間、男は固まった。男は重大なミスを犯したのである。それは豚肉の存在をすっかり忘れていたのである。男は小さく舌打ちをして掬い上げたそれを丼に戻し平たい豚肉を恨み辛みの視線を投げかけそしてまた口の中へ。たぶん男は帆立の前に、食べたかったのだろう。食べる順番をかなり拘る男だ。きっと殺しも綿密な計画と職人芸な技で行うであろうと予想が付く。気付けばあっという間に豚肉は胃の中に納まっていた。

 そしてやっと永遠の恋人とでも言うように、鶏の太ももを見詰め、スプーンで愛撫した。それがこの男の、鶏への礼儀であり、この丼を食べ終わるための大切な儀式なのであろう。スプーンでゆっくりと筋肉の繊維に沿って割いて行く。何時間も煮込まれたであろう、鶏の太もも肉は抵抗する事もなく素直に割けて行く。男は丁寧に骨から実を削ぎ落とした。骨は米の存在していた皿に、何時の間にか移された。これで汁と鳥のもも肉だけの独壇場へと、変貌した。
 ゆっくりと汁に絡める。そこはもう秘密のマスカレード。誰もそれを邪魔できない。男はしかし淡々と汁と絡めて行く。そして一口、また一口へと口へ運んで行く。造作もない事。なぜなら男にとってこの行為は生きて行く上で大切な行為だからだ。舌に絡みつく汁と肉の欠片、そして香辛料といためたパプリカの香ばしい味。誰がこの味の共演に難癖を付けられようか。否、出来るはずがない。なぜならこの男の食べ方がその丼の中身を一番美味しく、食する方法だからだ。

 そして丼を傾けて最後の一滴すら飲み干した。場所がクラッシク開催の大ホールなら拍手喝采ものである。男は一つの偉業を遂げた。しかしこの男ならきっとこう言うに違いない。「当たり前の食い方だ」と。凛とした寂の含んだ声で。

 男はそのあと少しだけ残ったグラスの水を飲み干し、何時の間にか脱いだシャツを羽織りスプーンをスポーツタオルで丁寧に包み、椅子から降りた。優男はタイミングよくこの男の前に行き、あらかじめ用意されていたであろう金貨とレシートを交換した。
 そして男は入ってきた時と同様に、いやそれ以上に何事もなく店の外に向かう。背後から優男の声で「ありがとうございました」と軽やかな声が投げかけられた。
 男は黙って少しだけ振り向きその後、斜陽し始めた街道へと歩みだした。優男は胸が熱くなった。なぜなら少し振り向いた男の口元には、満足で満たされた微笑が見えたからだ。

 男はその後、どうなったかはしらない。だが私はその男をこれから追い続けようと思う。この男こそ、この世で一番美味しく湯辛来飯を食せる男だからだ、多分。

 所で今回難しい言葉があった。故に注訳を二つだけ教え今回のレポートを終わりにする。

 文字:『豚ばら肉塩漬け燻製』
 読み:「ぶたばらにくしおづけくんせい」
  訳 :「ベーコン」

 文字:『固茹で卵的湯辛来飯』
 読み:「かたゆでたまごてきゆしんらいはん」
  訳 :「ハードボイルド的スープカレー」

簡易日記 ●一つ上に戻る 戻る