◎Kの表現 2万HIT雑文
147 2005/06/28
◆野の牛様の創作雑文
:挿入文章A 「今回」「私の」「自由」「兎に角」「推理」「お笑い」「如月」「暗闇」
:挿入文章B 「D会話を「」を使って挿入する。」
日本語には様々な比喩表現・ことわざ・慣用句が存在する。
例えば「足が棒になる」という言葉がある。これは膝を曲げることが出来ないくらいに歩き疲れてしまった時に使う言葉であるが、この膝が曲がらない状態を「棒」に例えているわけである。また「猿も木から落ちる」ということわざもあるが、これは木登りの名人である猿でさえも木から落ちてしまうことがあるように、どんな名人・達人でも失敗することがあるという意味を示している。
まあこれらは有名な言葉ではあるが、よくよく見ていくと、なるほど非常に理にかなった巧い例え方をしている。それに足を棒に例える発想や、猿に例える遊び心など、ことわざ・慣用句、又は比喩表現には日本語の魅力がギッシリと詰まっているように思われる。
私の友人に、ことわざ・慣用句を生み出す達人がいる。
まあ正確にはことわざ・慣用句というより比喩表現の達人なのだが。彼の名前をここでは仮に「K」としておこう。(ちなみに如月ではない)私はこのKの操る自由奔放でありながら緻密に計算された言葉の数々に何度魅了され、何度お笑いの渦に引き込まれたことか。今回はそんな彼の言葉を厳選して紹介しながら、それに私なりの考察を加えてみたいと思う。では兎に角さっそくいってみよう。
それは私とKが電話で会話していた時に発せられた一言である。
私:「いやぁ最近あったかくなってきたな」
K:「いや〜ホントよ。もう暑いのはお前の顔だけにしてくれや」
私:「なんだそりゃ!?うっさいわ〜!」
・・・・まぁこの時点でなかなか興味深い言葉遣いなのだが。ちなみに彼との会話はいつもこのような感じで進んでいく。そして問題の発言はこの後である。
K:「いや〜そろそろ夏服買わないとな。」
私:「そうだな。俺もほしいな。どんなのがいいべか?」
K:「は?お前は何でもいいべや!豆腐の角みたいな顔してるくせに!!!」
その言葉を聞いたとき、私の思考回路は暗闇に落ちた。「豆腐の角のような顔」とは一体どのような顔なのだろうか。会話の流れから推測するには、これは決して褒め言葉ではないだろう。というかそれ以前に「夏服」という話題を振っておいて、私がそれに乗っかったところに「お前は何でもいいべや!」の発言は、はっきり言って極悪非道である。
にしても「豆腐の角」である。彼は何を意図してこのような言葉を選び、使ったのか。考察してみよう。
まず、豆腐には角というものが存在するのだろうか?いや確かに存在するだろう。最も一般的なあの四角く整形された豆腐には角が4つ存在する。しかし豆腐には他にも様々な形式があり、例えば、ざるで豆腐の水分を抜いていく「ざる豆腐」などはその形の中に角というものを見つけることは出来ない。
また、たとえ四角い豆腐であっても、ひとたびそれを切り分けると、さらに新たな角が生まれたり、生まれなかったりする。なんとも曖昧な存在である。それに普段我々は豆腐の角というものを気に留めるだろうか。もしするとしたら、それはよっぽどの豆腐マニアかまたは角フェチだろう。
ここから推理すると「豆腐の角のような顔」とは「誰の気にも留められないような、なんとも存在意義の曖昧な顔」ということになるであろう。これは侮辱以外の何ものでもない。Kめ、このやろう。
しかし「角」について言うのならば、別に豆腐でなくとも良い。その曖昧さ、存在意義の薄さで言ったら「消しゴムの角」のほうが若干上だろう。しかしKは豆腐を選んだ。そこに何か別の意味があるような気がする。
豆腐という素材を思い浮かべると、色は白く、又種類にもよるが絹ごし豆腐などは表面も咽越しも非常に滑らかである。確かに私の肌の白さ、滑らかさには定評がある。
しかし豆腐というものは非常に脆く、崩れやすい。顔で崩れるといったら化粧だが、私は男なので化粧はしない。であるとするなら、このことが意味するのは「表情」ではないだろうか。表情が崩れやすい、すなわち表情が豊かだということをKは表現したかったのではないか。我ながらかなり前向きな解釈だと思うが、そう考えるとKもなかなかいいところがあるではないか。
これらを総括すると「豆腐の角のような顔」の意味は「肌が白く滑らかで、表情が豊かだが、誰の気にも留められず、存在意義の曖昧な顔」ということになる。表情が豊かなのに存在意義が曖昧とは何とも虚しいではないか。やはりこれは侮辱である。Kめ、このやろう。
しかし、まずそれ以前に、たとえ顔がそのような顔だからといって、服装が何でもいいということにはならないと思うのは私だけだろうか?
この「豆腐の角みたいな顔」に類似する他の表現として「カマボコの板みたいなヤツ」というのがある。この意味については皆さんの研究の成果を待ちたいところである。
では次の事例にいってみよう。それは私と彼が、まだ少し雪の残る4月初頭、休日に隣町までドライブに行ったときのことである。ちなみに、隣町といっても車で片道2時間はかかる。まあ北海道という土地を考えるとこれは当たり前のことなのだが。
その日は天気こそ良かったが、木が揺れ、窓がきしむ、非常に風の強い日であった。こんな日に外に出ると、どのような事になるかは皆さんも想像できるだろう。そう、無事に隣町に到着し、車から降りた瞬間の二人の姿は、意味もなく向かい風を浴びながらも拳を突き上げ、ヤーヤーと叫ぶC○AGE&○SKAのそれであった。
さらにその当時、私は髪の毛を伸ばしていた・・・・いや正確には伸びていた。そして私の髪は非常に太く、厚く、重苦しい。その髪の毛が突風によって一斉に逆立ったのである。
その様子は私が形容するとしたら「海底で揺れる昆布」である。
しかしKはそんなありきたりな表現は使わない。その時の私の髪の毛を見て、指を刺して笑いながら彼が放った言葉はこうである。
K:「(ゲラゲラと笑いながら)なんだその髪は!?まるで建売り住宅だな!!!」
その言葉を聞いた時、私の脳天に一筋の稲妻が走った。髪が建売り住宅とは一体どういうことだ?「住宅」という言葉のイメージからはおおよそ髪の毛の比喩には相応しくないように思われる。しかしKのことだ。きっとその言葉の裏には緻密に構成された意味が隠されているにちがいない。頭を振り絞って考えてみよう。
建売り住宅は、皆さんもご存知だと思うが、すでに完成したものを販売する住宅のことであり、モデルルームなどで使われたものは、その後、建売り住宅として販売される。ハウスメーカーが数軒分の土地を一括購入し、一斉に家を建てるため、注文住宅よりも安く購入することが出来る。もちろん、すでに建てられているため、場所やデザインに一切の自由はきかない。
購入者(=私の髪)はハウスメーカー(=風)に与えられるままになびくしかない。つまりKは私の髪を、この建売り住宅を購入する際の自由のなさになぞらえたのではないだろうか。確かにその時の私の髪は私の意志には関係なく動いていた、いや動かされていたのだ。Kはその姿に、この資本主義社会における、企業側の利潤追求に利用される我々消費者の姿を重ね合わせたのかもしれない。
我ながら強引な推理だとは思うが、しかし仮にこれが正しかったとしても、ならばより適した例えが他にもあるように思える。なぜに「住宅」なのだろうか。
「住宅」と「髪の毛」がどうしても結びつかない。しかしそれは我々の持つ「住宅」のイメージが形式的で固定化されたものだからである。Kの認識は、もっと自由で柔軟だった。
住宅といっても、それは現在我々が住んでいるようなものだけではなく、場所や時代によって様々な建築様式がある。木造建築、石造りに土で出来た家。合掌造りに書院造に寝殿造にバロック形式、そして古く知られたところでは高床式住居や竪穴式住居なども立派な住宅である。
なるほど茅で出来た竪穴式住居は髪の毛に見えないこともない。私の髪の毛が金髪だったら言うことはなかったが、あの素材感はその時の私の重く、厚い髪を比喩するのに、最も適していたのかもしれない。
以上をまとめると、Kの言う「建売り住宅」とは「ハウスメーカーによって既に建てられた、場所やデザインに自由のきかない、竪穴式住居」を示していたということになる。
・・・・・そんなものは誰も買わない。
「しかしお前はそれを買ってしまったんだよ、ただ風のなびくままにな!」
そうか、あの時のKの笑いは、そんな哀れさを私の髪に見出したからこその嘲笑だったのか。そうであるならば「建売り住宅」という表現にも合点がいく。・・・にしてもやはりひどい意味だ。Kめ、このやろう。
しかしKの表現はなんて奥が深く、そして痛烈なのだろうか。私の推理はかなり強引で無理があるかもしれないし、Kもこんなことを考えずに思いつきのまま言葉を発しているのかもしれない。しかしその表現に魅力を感じ、何とかしてそこに何らかの意味を見出そうとするのも、無駄なことではないように思える。まぁ見出したところで、大抵はこのようにひどい意味なのだが、それでも私はこれからも彼の言葉のいちファンとして、その表現と意味を追い続けていきたいと思う。
・・・と、そんなことを思う暇なく「建売り住宅」発言の直後、彼はこんな言葉を私に発した。
「(爆笑しながら)顔は祭壇だな。」
・・・一体私の顔の上では何が祭られているというのか。これはもう私の手に負えるものではない。だれか私の後継者として、彼の表現の研究を続けていってほしいところである。
ってか顔は豆腐の角じゃなかったのかよ!!!