◎詩の凍結について

155 2005/07/24

 何やら如月の詩作への考え方はどうやら常軌を逸脱しているらしい。おおよそ簡単に流す部分を如月は何やらありえない方向のベクトルを抱えながら流す事をしないらしい。

 だがそれで良いのかも知れないとも最近思うようになった。もちろん吸収すべき何かが、目の前にあるときは喜んで、それを食い散らかして己の栄養とし、それで前に進むべきだと思っているから。吸収なく前進は無いと心から思っている。

 本来、詩とは己の心の吐露すべきものであって、そう言う吐露すべき物がなければ、詩を生み出す環境としては相応しくなく、だからそう言う時は無理して詩作を行わない。何やらそう言うものらしい。きっとそれが、詩が詩であるもと言える本来の道筋であると素直に、思う。ただ如月はどこか狂っているのでなかなかそう飲み込めないでいる。如月は詩を紡ぐ事によって如月と言う人格が証明され、そして己を確立できるものであると思っている。

 風のそよぎ。雨音の乱音。星の瞬き。太陽の光線。月の余韻。人々の喧騒。それらを受け如月の心が動きそして思考は文字に変わり文字の集合体が言葉になってそして詩へ。
 そして詩として如月の心が形になる時、如月八雲と言う人格がこの世に現れて足跡を残すそんな自己証明の証しだと思っている。つまり「如月があって詩ではなく詩があって如月」なのかもしれない。だから毎日でも如月は詩を紡ぎ続けて、生きたいのだ。

 やっぱり少し常軌を逸脱しているのかもしれない。

 ただ如月は思うのだ。
 言葉にする事により普段では気付かない何かに出会ったり、何かに触れる事が出来たり、何かに繋がっていたり(もしかしたらそれは激しく妄想の産物なのかもしれない)するのかもしれないと。しかしきっとその支柱としている詩作の方向性を変えたとしたらきっとそれはもう如月八雲の詩としては成り立たないと思う。

 言葉にする事によって自己確立を成して、自己確立できるからまた言葉を紡いで。
 果てしなくそれは愚かな行でもあるかもしれないが、しかしそれが今如月が唯一できる、一つの方法だと思ってはいる。もちろんそれは如月だけに当てはまるものでありそれ以外を認めないと言っている訳ではない。他人にそれを押し付けるつもりもないしもしそれを押し付けたとしたら、それこそ本当に愚の骨頂の何者でもないと思う。そして吸収すら出来ないままで成長も前進もないもの思っている。

 と言うわけで凍結である。最近、自己証明のために書き続けている詩の内容が正直、目に余ってしょうがないほど薄くなっていると感じている。そしてそれは如月本人よりも、毎回如月の詩を読んでいただいている読み手からも、ちらほらと聞こえてきている。

 それはとても由々しき事態であり、これから先一生をかけて詩を書き続けると胸に決めた如月にとってはもっとも恐怖し改めなければならない事態であると、心から感じている。

 では、何故そんな事態に陥ったのか?答えは簡単である。作る事を優先してきたからだ。前半では「如月があって詩ではなく詩があって如月」と言っているので明らかに作る事を、優先するのは当たり前になる言い方なのだが、しかしそうではないのだ。
 心の揺れが少なくてもそれを大きく取り上げ過ぎて、なぜ心の揺れがあったのかについてまできっちり見切れていなかった。だから心が動いた部分を欠如した詩であるから、内容が薄くなっているのだと思う。

 ここらで一端、もっと己を見詰め、そして心の揺れが激しくなるまでしばらく新作の詩を紡ぐことを止めておこうと思う。そうでなければ、せっかく如月の稚拙な詩を優しく読んで頂いている方々にも、すごく申し訳ない気がするのだ。もちろんそれだけではなく薄い詩を紡ぎ続ける己の愚かさに腹が立っていると言う思いもあるからであるが。

 だから凍結。もっと書きたい気持ちを貯めつつ、いろいろな刺激を求めて。
 そしてさらなる高みへ。しばし、詩仙庵の詩だけ凍結。以上、終わり。


 って今回かなり書き方が威圧的でごめんなさい(汗)なんかどうしても凍結することに気合入りまくちゃって…。>ああ、やっぱ結構如月弱虫だ;;>すんません。

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