◎恐話百鬼夜行 第三十六夜(中)

178 2005/08/31

◆『生き人形/1997年TV放送より』      語り部:稲川淳二 職業:タレント

 そして、その日の公演「昼の部」直前の事である。稲川さん以外の出演者が
 全員倒れてしまったのである。熱を出したり下痢を起こしたり…。とにかくお昼の
 公演は無理である。お客さんには事情を説明して、お昼の部のチケットでも、
 その日最後の「夜の部」を見られるように、見ない人にはチケットを買い戻すという
 措置が取られた。
 
 そして稲川さんの発案で、大変ご利益があるというお寺に行って関係者一同御払いを
 してもらう事にした。
 夜になる頃には具合の悪かった出演者達もいくらか回復し、夜の公演が無事に
 行なわれる事となった。お昼の部のチケットを持っている人は、ほとんどが帰らずに
 夜の公演を見ることにしたらしく、会場は立ち見客を含めて満員だった。
 そろそろ暖かくなってくる時期だしそれほどまでに人が大勢集まっているにも
 かかわらず、客たちは声を揃えた。
 
「この会場寒いよね…。」
 
 稲川さんは舞台の袖で待機していた。そこへ、稲川さんの家に居候していた人が
 やって来た。何とも奇妙な顔をしている。
 
「稲川、おかしいよ…。」
「何が?」
「黒子さんの衣装を着た出演者は何人居る?」
「えーと、そうだなあ。少女人形3人、少年人形3人、それと舞台監督さんだから
 全部で7人だろ?」
 
「…8人居るんだ。」
「…ウソつけ!」
 
 舞台の背面にある壁には、ホリゾントという幕が天井から舞台の床まで
 垂れ下がっている。その幕に色々な光を当てたり影を投影させたり、
 特殊効果を与えて演出して行くのだが、そのホリゾントと壁の間のわずかな隙間に
 人が立っているというのだ。
 
「…お前それ誰かに言ったか?」
「いや、言ってないよ。」
「言うんじゃないよ?…皆気にするからさ。」
 
 とは言ったものの稲川さん自身も気になって当たり前である。目は自然とその
 「誰かが立っている辺り」を見てしまう。すると、小さな明かりが2つ見えた。
 
(あぁ、なんだ。舞台監督さんか。メガネに光が反射してるんだな?)
 と思って少し安心した。しかし、しばらく見ているとその小さな光2つが、ゆっくりと
 稲川さんの方を見るように角度を変えてきたのだ。
 
(そんなはずって…ないんだよね…。)
 
 この時の様子を、稲川さんは思い出すとゾッとするという。それもそうである。
 もしメガネに光が反射しているのであれば、角度を変えた瞬間光を反射させている
 「光源」からメガネまで光が届かなくなり、消えるはずだからだ。しかしこの時点では
 稲川さんは気が付かなかった。舞台監督さんの声が聞こえて来たからだ。
「稲川さん、こちらです。稲川さんこちらです。」
 小さな声で誘導してくれる。
 舞台が暗転、つまり真っ暗闇のうちに稲川さんは舞台に上がり、所定の場所まで
 歩いていく。だが暗くて足元が見えないために舞台監督さんが誘導してくれるのだ。
 舞台の真中辺りに稲川さんが差し掛かった時である。稲川さんはハッ!とした。
 少年人形、少女人形の黒子さん6人は自分のすぐ間近に居る。舞台監督さんは
 ホリゾントの後ろ、つまり小さな光が2つある場所とはまったく違う、
 舞台の反対側の袖に居るのだ。
 居候の彼が言っていた事は証明されてしまったのである。
 
 やがて稲川さんがスタート位置に付き、ホワイトスポットが
 稲川さんに当たり舞台が始まった。
 その瞬間。
 
パーン!
 
 という乾いた音と共に少女人形の右手が割れたのである。中からは骨組みが見えていた。
 舞台も佳境に入り、ある役者さんがその少女人形を棺桶に入れて引っ張るという
 シーンでの事である。棺桶は丈夫な木で作られた物で重さが8kgもある。
 しかし大の大人が二人掛りでも持ち上がらないというほどの重さでもない。しかし、
 持ちあがらない。まったくビクともしないのだ。
 やがて棺桶からはフワ〜ッとドライアイスを入れたように霧が立ち込めてきた。
「わ〜…。すご〜い。」
 お客さん達は上手な演出だと思いこみ、拍手をしながら見つめている。
 仕方が無いので棺桶はその場に置いておくこととなった。
 やがて棺桶を引っ張る役の役者さんが戻ってきて舞台監督さんに尋ねた。
 
「…ドライアイスなんていつ入れたの?」
「…いや…入れてない。」
 
 そして舞台は最後の場面を迎えた。声優の杉山和子さんという女性が、
 後ろを向いたかと思うと老婆の格好から綺麗な女性に一瞬にして早変わりする、
 というとても美しいラストシーンでの事である。なにしろ外国の取材人が見て
 絶賛したほどの、最後の見せ場であった。
 杉山さんが後ろを向いた瞬間の事だ。
 なんと杉山さんがかぶっている頭のかつらに火が付いたのだ。
 確かに演出で火は付く事になっていた。しかしそれは本当の火ではなく、
 例えばボール紙を切りぬいて火の形を作り色を塗ったような、作り物の火なのである。
 舞台は騒然。
 お客さん達もそれが演出ではなく事故だという事に気が付き大混乱となった。
 そうでなくともあまりにも不可思議な現象が多発していた為にスタッフですら
 パニック状態である。結局この日を境に舞台は、事情をお客さん達に説明して、
 公演その物を中止せざるを得ない状況にまでなってしまった。
 
 そんな事があってしばらく経った頃。稲川さん達が行なったこの公演で不吉な出来事が
 多発しているという事を知った東京にあるTV局の人間が、
「その怖い話を、TVで紹介するみたいな、そういう番組をやらせてくれないか?」
 と、稲川さんに連絡してきたのである
 
「いや〜…。それは…やめた方がいいんじゃないかな〜…。」
 
 そう穏やかに警告した稲川さんだったが、TV局の人は熱心に稲川さんに相談してくる。
 その熱意に押され稲川さんは結局、
(前野さんという、今は人形の責任者みたいな人がいるからその人に聞いてみてあげる。)
 と約束してしまったのだ。前野さんはすぐにTV局の人の要望を承諾したのだが、
 前野さんは最後にもう一度だけ、中止になっていた舞台をやってからTVに出たい、
 と言ってきたのである。
 しかし稲川さん自身は、あまりにもその舞台には不吉な出来事が起きていたので、
 TVの仕事も舞台とも、縁を切りたいと思っていた。しかし、
 いつもらしくない前野さんの半ば強引な勧誘に誘われ、シブシブ承諾してしまったのだ。
「じゃあ稲川ちゃん、明日TV局だよ。忘れないでよ!」
 そういって前野さんは自宅に一度帰って行った。
 自宅には、その日の朝まで元気だった父親が原因不明の死を遂げている事を知らずに。
 
 この事を知った稲川さんは、人形について少し自分なりに調べてみようと思い立った。
 従兄弟に続いて今度は前野さんの父親が死に、ますます状況は良くない。それを聞いた
 TV局の人も
「それはますます凄い!」
 と、不謹慎にも大喜びしている。あの少女人形には何かあるはずだ…。
 
 稲川さんの耳に不気味な話が入ってきたのはその頃だ。
 行方不明となっていた、少女人形を製作した本人。彼が見つかったのだ。
 京都の山奥で一人仏像を彫っているというのである。しかし彼は東京から京都まで、
 いつどうやって行ったのか?何の目的があったのか?完全に記憶が失われていた。
 まるで世捨て人のように。
 その場所にTV番組レポーターとして小松方正さんがスタッフと共に向かう事になった。
 小松方正さんを含めた関係者達は取材の前日、同じホテルに全員分を予約している。
 しかし、ホテルに着いた関係者全員が今でも首を傾げるというのは、いざ皆で取材に
 行こうと皆で待ち合わせ場所に行っても、全員がそろわなかった事だという。
 同じ日に同じホテルである。インターホンもあるし、連絡はいくらでも取れるはずだ。
 現にスタッフの一人が、
「これから皆で現場に向かうので、1階のロビーまで来て下さいね。」
 と、確認の電話を全員に入れたらしいのだ。
 後日稲川さんが小松方正さんに聞いてみたところ、小松さんの場合は集合の電話を
 もらってまもなく1階のフロントまで行ったのだが、誰もいないのでしばらく待って
 いたそうだ。それでも誰も来ないので場所を間違えたかと思い、スタッフ達を探しに
 周ったらしい。
 あるスタッフによれば、やはり集合の電話をもらってから間もなく1階のロビーまで
 行ったのだが誰もいない。つまり全員が全員「行き違い」だったのだ。
 結局この撮影ではスタッフ達が集まらない為に撮影は中止。全員で東京に
 引き上げたのである。
 
 しばらくしてから、今度は一度スタッフだけ先行して現地に向かおうという事になった。
 しかしである。
 TV局の人間が手配した新幹線の切符は、全員が全員、乗る時間、乗る電車、
 目的地がバラバラで使い物にならないという事態が起きていた。切符の手配をした人にも
 JRにも、まったく不手際はないのだ。
 そういった混乱がありながらもTV局も今度は強行日程である。全員で到着するなり
 京都にいる人形の製作者にインタビューをして、日帰りで東京まで帰ってきたそうだ。
 ところが、東京に戻った彼らを恐ろしい出来事が待ち構えていた。
 自宅に戻ったこのTV番組のディレクターの奥さんの、首から下が真っ赤に
 腫れ上がっていた。原因は不明。そして新幹線の切符を手配した女性の息子さんが
 交通事故に遭って入院していた。更に脚本の構成家、彼の家で飼っている犬が、
 前足がガクガクになってしまってまったく立てない。同じく原因は不明。
 誰ともなしにそれらの出来事が起きた時刻を話してみると顔色が変わった。
 ほぼ同じ時刻だったのだ。
 稲川さんも含めたTVスタッフ達の間にも重苦しい雰囲気が立ち込めていた。
 しかし撮影は進んでしまっているし番組も放送の構成をされてしまっている以上
 続行しなくてはならない。
 稲川さんの家にもカメラは入って少し撮影して行ったそうだ。
 
 そしていよいよ、今度はTV局のスタジオ収録の日がやって来た。収録はそのTV局の
 最上階にあるリハーサル室で行われる事となった。
 スタジオ内のほぼ中央にあるイスに腰掛けて合図を待つ。
 目の前のカメラを操作している人や照明さんは、稲川さんとは旧知の間柄。和やかに
 準備は進む。やがて開始の合図が出て収録が始まった。
 
「…え〜、私つい最近人形と一緒に芝居をする事になりまして…。
 これは人形にまつわる」
「ごめ〜ん。カメラ止まっちゃった。」
 
 仕方なく別のカメラを持ってきて撮影は再開された。
 
「…え〜、私つい最近人形と一緒に芝居をする事になりまして…。
 これは人形にまつわる」
「…また止まっちゃった…。」
 
 故障が立て続けに起きてしまったのだ。今現在使えるカメラがここには無い、
 という状況になった為、倉庫においてある古いカメラを持ってくる事となった。
 用意されたカメラは、太いワイヤーの付いた巨大なカメラ。
 今から20〜30年前くらいに使われていたようなカメラである。
 しばらくのセッティングの後、撮影は再び始まった。しかし、この頃になると稲川さんを
 含めたその場にいる人間たちの間にいいじれぬ恐怖が漂っている。
 そうでなくても色々な事故や不吉な出来事が起きているお芝居の話であり、今はその話を
 扱うTV局にも降りかかってきているのだ。
 
 しかし稲川さんは恐怖を我慢して気分を落ち着かせ、冷静に話し始めた。
 
「…え〜、私つい最近人形と一緒に芝居をする事になりまして…。
 これは人形にまつわる」
 
ドンドンドンドンドンドンドンドンドン!!!
 
 突然リハーサル室の扉を叩く音がスタジオ中に響き渡った。カメラは回っている。
 外の壁には「本番収録中」を知らせる赤いランプが点灯している。それにそもそも
 ここはTV局である。そんな事をする人間はTV局内には一人もいない。
 しかし扉を叩く音は段々と大きくなって行く。
 
ドンドンドンドンドンドンドンドンドン!!!
 
 稲川さんもその音のあまりの大きさに驚きながらも、カメラは回り、本番の撮影中で
 あったため話を続けた。しかし、ふと稲川さんは視線を感じた。
 番組のディレクターである。彼は稲川さんの様子を見て、観客を見て、スタッフを見た。
 明らかに困惑しているのである。
 尚も扉を叩く音は鳴り止まない。
 
ドンドンドンドンドンドンドンドンドン!!!
 
 するとディレクターが真っ青な顔をしながら扉の方に向かって走って行き、
 扉を勢いよく開けた。
 
バーン!!!
 
 誰も居ないのである。
 現在稲川さんたちが居るここのスタジオは通称「Aリハーサル室」と呼ばれており、
 廊下を挟んだ向かい側にもう一つ「Bリハーサル室」がある。しかしこの時
 「Bリハーサル室」は使用されておらず、扉には鍵がかかっていた。さらに、
 この階は廊下が1本道で、奥の突き当たりにエレベーター、そしてエレベーターの横に
 階段が一つあるだけで他に隠れるような部屋は無いのである。
 それにも関わらず誰も居ないのだ。
 
パタパタパタッ…!
 
 と走り去るような音が聞こえるのであればまだ、いい。
 そんな音すら何も無かったのだ。
 
 結果的にこの番組は、その後関係者達やTV局に事故があまりにも多発したために
 収録は中止。放送もされる事は無かった。
 
 しかししばらくすると、今度は東京にあるもっと大きなTV局から稲川さんの元に
 依頼があった。その少女人形にまつわる色々な怪奇な出来事を、紹介してくれという
 この前のTV局とほとんど同じような内容であった。
 当時稲川さんはこのTV局で放送されていた芸能人の私生活追跡!みたいな番組で
 突撃レポーターといった役で出演していた。そして時期も丁度夏場であった為、
 この番組のディレクターが稲川さんに声をかけたのだ。稲川さんもあまり
 深く考え無いようにしていたため、これを承諾した。
 
 そして収録の日、TV局に着いた稲川さんが楽屋で休んでいると前野さんが例の人形を
 大事そうに抱えて到着した。
 その人形を見たとき、稲川さんはある事に気が付いた。
 人形の髪が伸びているのである。
 以前稲川さんがその人形を見た時には、おかっぱのセミロングであった髪が、
 この時点では完全に肩にかかっているのである。一瞬自分の気のせいかとも思った
 稲川さんだったが、どうにも釈然としなかったらしい。
 やがて前野さんは、楽屋にいるメイクさんからクシを借りて人形の髪をとかし始めた。
 その様子をなにか背筋に寒い物を感じながら見ていた稲川さんに、前野さんが
 話しかけてきた。前野さんは当時51歳であった。
 
「他の人形は売ったっていいんだけど、この人形とだけは絶対に別れられないからね…。」
 
 尚も前野さんは笑顔で人形の髪をとかしている。
 
 その後リハーサルが行なわれ、45分後に本番が始まった。
 この番組は生放送である。しかし本番が始まったとたん、停電になってしまった。
 他のスタジオや調整ルームに連絡してみると、不思議な事に他の場所は
 停電になっていなかった。
 
 やがて電力も回復し、あらためて本番が始まる事となった。人形には紙風船が
 付けられてイスに置かれ、床には玉ジャリが敷かれ、背後に黒い大きな幕が
 垂れ下がっている。そして番組司会の野村さんという人物が
 
「次は火曜日に出演している稲川さんのお話による、人形にまつわる怪奇なお話です。」
 
 といった紹介をした後に人形が映り、CMに入る…という段取りであったのだが、
 人形が映った瞬間に背後に下げてあった幕を天井につないでいる何本ものヒモが
 
スパッ!!!
 
 と音を立てて一斉に切れ、幕が床に落ちてきたのだ。
 1本1本、プツンプツンと切れるのではなく、同時に切れたのである。そして
 落ちてきた幕が人形に当たり、人形はあたかも人間が床に崩れ落ちるかのように
 ガクガクッと体中の間接を動かしながら床に落ちた。そして次の瞬間、TV局においては
 絶対に起きてはいけない、というよりは起きないはずの事が起きてしまった。
 天井に設置してある照明が落ちてきたのだ。
 照明一基とはいえ、一つ一つは大変な重さである。それ故落ちてきたらこれほど
 危険な物は無いため、絶対に落ちないように鎖で何重にもつなぎ、固定してあるのだ。
 落とそうにもなかなか落ちない物なのである。それが落ちてきてしまった。
 さらに、照明が落ちてきた地点とは離れた場所にあったカメラが壊れてしまったのだ。
 そして、この時スタジオに居たスタッフが一人、後日亡くなったそうだ。原因は不明。
 この番組にアシスタントとして出演していた女性のタレントも、後日交通事故を起こし、
 雑誌で一斉に騒がれた為に、その後芸能界から完全に引退してしまった。
 
 こういった事件が次次へと起きる事を知った稲川さんは、前野さんに相談を持ちかけた。
 
「もう、この人形を人目にさらすのはやめよう。舞台の事もその後の事件の事も、
 この人形にまつわる色々な不幸を番組で話すのも、いい加減にやめよう。」
 
 という事であった。それほどまでに色々な事が起きすぎていたのだ。
 前野さんも稲川さんの話に納得し、稲川さんと前野さんは2人でこの人形を、
 久慈玲雲さんという有名な霊能者の方が居る事務所に持っていき、
 供養をしてもらう事にした。
 その後はお寺に納めてもらおうと思ったのだが、久慈玲雲さんは
 
「イヤだ。その人形は見たくない。」
 
 と言って稲川さん達の申し出に応じないのである。久慈玲雲さんはこの人形を今まで
 一度も見たことが無いのだが、まるで全てを知っているかのように2人に説明してきた。
 
「こういうのは怖い。人間には魂があるけれど、人形には当然魂は無い、だから色々な
 念が入りやすい。もし動物や子供の霊が入ってきたらたまらない、私に手に負えない。」
 
 しかし2人も必死にお願いして、結局久慈玲雲さんもしぶしぶではあるが
 供養してくれる事となった。
 
 2日後。
 
 稲川さんと前野さんの2人は人形に宿っているかもしれない得体の知れない
 何かが成仏してくれたという事を話題にしながら久慈玲雲さんの事務所を訪れた。
 お礼を言いに来たのである。
 しかし、事務所は閉っていた。
 
「あれ…?おかしいな。」
 
 仕方が無いので電話で連絡を取ってみてもつながらない。
 仕方が無いのでこの日はあきらめる事とした。
 やがて1週間後に、今度は稲川さんが1人で事務所を訪れたが、やはり閉っている。
 しかしいつの間にか事務所の看板は無くなっていた。
 それっきりであった。稲川さんは久慈玲雲さんとまったくの音信不通となり、
 完全に行方不明となってしまった。
 
 それから随分と経った頃の話である。
 稲川さんが、久慈玲雲さんが亡くなっていた事を知ったのは。
 
 稲川さんの知り合いで、雑誌記者の人物がおり、この人も久慈玲雲さんの事を
 探していたらしいのだ。この人が久慈玲雲さんの様子を克明に調べ、雑誌に
 掲載したのである。
 それによれば、稲川さんと前野さんの2人が人形を持って訪ねた日の夜、
 突如倒れたのだ。しかしその場に居た人にも原因が分からなかったために病院に
 運んで行ったのだという。
 久慈玲雲さんというのはかなり大柄な、体重も80kgを超える太った女性の方で
 あったのだが、3日でガリガリにやせ細ってしまったそうだ。死亡時の体重、
 なんと30kg台。首を傾げ、不可解な笑みを浮かべた死に顔だったという。
 
「…そんな事あるの…?」
 
 とても信じられない話に稲川さんも驚いたという。
 その後稲川さんは前野さんに、この人形は写真を撮って、その写真だけ大事に
 持ち歩いているようにして、人形はお寺に預けようともう一度持ちかけた。
 前野さんも納得し、稲川さんは知り合いのカメラマンの方に相談してキレイな写真を
 撮影してもらう事にした。
 久慈玲雲さんの事務所から引き取った人形を前野さんが撮影スタジオに持って行き、
 撮影は行なわれた。
 稲川さんと前野さんの2人は建物にある休憩所で待っていたのだが、
 写真を現像し終わったカメラマンが、悲鳴を上げながら暗室から飛び出してきた。
 驚いた稲川さんはその、たった今現像した人形の写真を見て思わず声を上げた。
 今3人の目の前にある人形はまったくの普通である。しかし、写真に映ったその人形の
 姿は、すでに少女の姿ではなかったのだ。
 髪は床まで伸び、目は切れ長で妖艶な唇を持ち、真っ白い肌で顔立ちはほっそりと
 していた。それは紛れもなく成人した女の姿で映っていたのである。
 3人はその場に立ち尽くすしかなかった。
 
 しかし、稲川さんはこの時の事を思い返して悔やまれるのが、2人でお寺に
 人形を預けに行けば良かった、という事だという。前野さんはその後、稲川さんから
 
「間違いなく預けるようにね。」
 
 と念を押されていたにも関わらず、預けずに自分の家に持って帰ってしまったのだ。
 
 その後、今度は大阪にある有名なキーTV局から稲川さんの元に依頼があった。
 もはや3回目となるのだが、やはり時期も丁度いいしあの人形についての番組を
 撮りたいから稲川さんにも出演して欲しいという事だ。
 この番組は毎週月曜日から金曜日のお昼14:00から放送している大変な
 人気番組であった。
 
「稲川さん、おすぎさんから聞いたんですよ。今話題になってますよね?シーズンも
 夏ですし、ぜひやりたいんですよ。」
「いや…もう、やめて下さい。あの話はしたくないんですよ。
 申し訳ありませんが行けません…。」
 
 稲川さんはハッキリと断った。もうあんな恐ろしい思いをするのはご免だったのである。
 しかし、ディレクターの話を一度は断った稲川さんの元に、何度も誘いが来る。
 その内稲川さんと親しい人物も依頼をして来た為、とうとう断りきれずに番組への
 出演を承諾してしまったのだ。
 
「分かりました、では人形使いの前野さんという方と一緒に出ましょう。」
 
 こうして稲川さんと前野さんの2人は新幹線で大阪に向かった。
 そして番組のリハーサルが始まった。稲川さんはスタジオの真中に置かれたイスに座り、
 話す事となっている。稲川さんの背後には黒い大きな幕が天井から垂れ下がっている。
 黒い幕の前には番組のタイトルを書いた大きなパネルの吊り下げられている。
 リハーサルが始まり、いざ稲川さんがイスに座ると天井の方から
 
ヒューーーーーーーーーーー…。
 
 という、笛の音のような音が聞こえてきた。
 
(おぉ…雰囲気でてるなぁ…。)
 
 思わず稲川さんもそう思ったほどその音はハッキリと、大きく聞こえてきた。
 ここのスタジオは通常とは違い、実際に収録する場所と音声等を調整する調整ルームが
 同じ床の上にある。通常は調整ルームだけが同じ階とはいえ階段を上っていった
 天井近くのスペースにあり、管理するのだ。その調整ルームから声が聞こえてきた。
 
「いいかお前ら!今日も番組成功させるぞ!失敗しても幽霊のせいにはしたらいかんぞ!」
「何言ってるんすかー、アハハ。」
 
 楽しそうに話している声である。本番まではまだ時間があるため、稲川さんは
 前野さんを誘いコーヒーでも飲もうと、休憩コーナーに向かった。するとそこでは
 なにやらトラブルがあったらしく、複数のスタッフが大声で怒鳴り合っていた。
 何事かと思い遠巻きに様子をうかがう稲川さん。
 
「おい!なんじゃい、あの音は!」
「い、いえ…。それが俺達にも分からんのですわ…。」
「分からんって…お前ら音声だろうが!?」
 
 するとその場に居た別のスタッフが、スタジオ内の音声を管理する現場の責任者を
 見つけた。先ほど調整ルームでスタッフに気合を入れていた人物である。
 この管理者もこの場に呼ばれたのだ。
 
「あ、来ました。チーフです!」
「なんすか?」
「さっきから聞こえてるあの音はなんなんですか!?」
「いや〜…俺らにもサッパリ分からんのです。」
「あ…分かった。ふざけてそんな事言ってるのとちゃいます?」
 
 緊迫した空気が少しやわらいだ。笑い声も沸き起こる。
 
「そんな事しませんって!バカにせんといて下さい!!!」
「またまた〜、何言っとるんですか〜。この、この〜。」
 
「…わし、やっとらんぜ!!!」
 
 管理者は本気で怒り出してしまった。その様子を見た周りのスタッフたちの間に、
 再び重い空気が流れる。稲川さんと前野さんは邪魔しないように静かに缶コーヒーを
 飲んでいたのだが、その稲川さんの元に遠くから廊下を走ってくるスタッフが1人いた。
 もの凄い勢いで走ってくる。そして息を切らせながら稲川さんに話しかけてきた。
 
「す、すいません稲川さん。今…番組に出演するはずだった霊能者の方が、
 局の前の道路で車にはねられちゃったんです…!」
「…えぇっ!?」
 
 思わず窓の外に目を向けると、外からはパトカーや救急車のサイレンの音が
 聞こえてくるのだ。
 
ファンファンファンファン!!!
 
「…あれがそう…?」
「そうなんです…!」
「で…どうするの?」
「えぇ、ですから本番に間に合うかどうか分からないんですが、別の霊能者の人を
 呼びますから、番組の中でつないで欲しいんですよ。」
「うん、分かった。つなぐよ。」
 
 するとその場に、同じ事を稲川さんに報告しに、プロデューサーがやって来た。
 
「稲川さん、実は大変な事になっちゃって…。」
「えぇ。今ADの彼から聞きましたよ。大変ですね。」
「いや・・その事だけじゃないんですよ。」
「…?」
 
 聞くところによると、その霊能者の人は「2人目」だというのだ。最初の1人目は、
 前日の夜にそのプロデューサーがTV局の向かいにある大きなホテルのバーで
 会っていたのだという。
 その場では翌日の収録についての軽い打ち合わせのような事が行なわれていたのだが、
 その霊能者の人がそれまでは翌日の出演について特に何も言ってなかったにも関わらず、
 打ち合わせの最中急に
 
「…やっぱり、申し訳無いんですが明日の出演はやめさせていただきます。」
 
 と言って来たというのだ。
 
「えぇっ!?ど、どうしたんですか、急に!?」
「いえ、申し訳ありませんとしか言えません。わたしは行かない方が良いみたいです。」
「そ、そのような事を今になって急に言われても…。どうしたんですか?一体…。」
「…これはちょっと、私の手には負えないようです…。」
「なにがですか?」
「…さっきからあそこで…女の子が私の事をジーッと見てるんです…。」
 
 と言ってプロデューサーの背後の方角を指差した。
 思わず後ろを振り向くプロデューサー。
 
「…誰もいないですよ…?」
「…いえ、わたし見えてますから…。多分…人形の女の子だと思います…。
 私行ったらきっとまずい事になります…。」
「…いや、あの…そんな事はないですよ。」
「いや…まずいです…。」
「そこをどうにか…頼みます!」
「…分かりました…。では行きましょう。」
 
 こうして1人目の霊能者の人は出演してくれる事になったのだが、プロデューサーと
 別れた後、この霊能者の人は原因不明の高熱を出し、倒れてしまったという。その為に
 出演は無理という事になり、仕方がなく大急ぎで別の霊能者の人物を探し出し、
 TV局に来てもらう事となった。
 その2人目の霊能者の人もまた、局の目の前で車にはねられるという事故に
 遭ってしまった訳である。
 
 そして霊能者の人が不在のまま番組は始まった。生放送である為に本番である。
 稲川さんはイスに座り前方を見た。しかし丁度真正面から強いライトが当たってる為に、
 まぶしくて前がよく見えない。話し始める合図は誰が出してくれるのか分からない
 稲川さんは横を見た。
 すると、背後にある黒い幕が引っ込んでいるのだ。
 
 分かりにくい状況の為補足すると、稲川さんたちがいる側を黒い幕の表として、
 そして幕を隔てた向こう側を裏とする。裏側にもし人が居たり何か物が置いてあるので
 あれば、幕が稲川さん達が居る表側の方に向かって出っ張っているはずだ。
 しかしそうではなくて、稲川さん達が居る表側の方から裏に向かって幕が
 引っ込んでいるのである。当然、何も無い。
 その引っ込みが、徐々に稲川さんに向かって進んでくるのだという。
 
(うわ…イヤだなぁ…。)
 
 そう思いゾッとした稲川さんであったが、カメラに向かって話し始めた。

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