◎詩 Vol.4 停滞

189 2005/10/09

 私が、詩を生み出せなくなる瞬間はいつも唐突で、何の前触れもなく訪れるのだ。

 前回は、詩を書き始めて流星の如く詩を紡ぎ出せる喜びをどう勘違いしてしまったのか、自分は詩を何時でも生み出せる凄い人と増長した事を赤裸々に書いたと思う。今回は、詩を書き続けたこの11年の間に幾度となく訪れた停滞、つまりスランプの状態とそこから抜け出した事を書いていこうと思う。間違ってもスランプの脱出の方法を広めたいと言う戯けた意思はないので、そこら辺を汲んでもらいたい。

 では、書き出す前に如月なりに持っているスランプの定義を、書いてみようと思う。俗にスランプとは金銭目的、またそれに準ずる状態を持ちつつ、コンスタントに生み出さないといけない状態が何かの要因で生み出す事ができなくなる状態だと思う、しかしながら如月の詩作は金銭目的及びそれに準ずる状態ではない。つまり職業やそれに近い事をしてる訳ではないので本来ならスランプと言う言葉を使うには、全くもって正しくないのである。

 しかし如月にとって詩作とは、口頭では説明できず、また絵画や音楽、はたまた演劇では説明できない心理や思想などを隠さず自分らしく具現化する大切な行為であり、そこには、今まで生きてきた26年間と言う人生の積み重ね(と言えるほど対した物は持ってないが)を反映し、描く神聖な行為でもある。さらに己を表に出し見て欲しいと言う欲求を満たす事により、今までの生き方を省みたり反芻したりして、如月に欠けている何かを見つけ様とする行為でもあり、この汚れた魂を文字を使って昇華したいと言う果てし無く荒唐無稽な諸行を表していたりするのだ。

 つまり、詩を書く事は如月にとって生きている証しを示すと同時に、常に自分を見詰める大切な行為、そして文字と言う媒体を使った欲求解消なのである。だからそれを行えないと言う事(つまり書けなくなる事)は非常に辛く、金銭目的及びそれに準ずる人が制作や創作が出来ない状態で悶々とする状態=スランプと、同じ位置だと思っているのである。

 そしてスランプは常に何の前触れもなく如月を襲ってくるのである。ある時は詩作してる途中で。またはある時は詩そのものを書かなくなるなど。上記で詩作は必要と書いてるのに書かなくなるなんて、明らかに矛盾しているが、その矛盾こそがスランプを形成する一部であると言える。

 スランプに陥るとどんなに筆を握っても、キーボードに指を置いても、何も浮かばない。例え何かを書き始めていても途中で失速し最終的にはボツになってしまう。
 心は泥沼にはまった足のように重たくなり、叫びだしたいのに口を塞がれて何も言えず、気持ちだけが空回りする感じで、とても気持ち悪い。
 そしてスランプの期間は、軽い時で1日、または1ヶ月。最長で1年も詩と向き合う事が出来ないくらいの期間もあった。

 そういう時ほど如月は、イライラしたり、いろいろな物事が上手くいかなかったりする。嫌な事が津波のように押し寄せてくる感じだ。そして詩のスランプにより精神は深遠に引き擦り込まれ、毎度、悲惨さを過酷に極めたりする。ただ、最近そういう事は少なくなったが一時期師匠であるLVR氏と決別まで行く勢いの、言い合いをしてしまった事もあるほど。

 そして詩作も5年目になろうとした時、ある事に気付いた。
 普段、スランプでない時でさえ、日々詩作を行うぞと気を引き締め走り続けているのに、スランプに陥った途端、いつも以上にさらに走ろうとするのだ。多分書けない恐怖から逃げ出したい為に。しかし足掻き叫び憤慨しても詩が書ける訳もなく、どんどん泥沼にはまっていく。嫌なベクトルにはまり気分は無限地獄スパイラルへと突入していく。
 そこで如月は、詩が大切なら絶対にまた書きたくなると言う自分の生き様を信じ、あえて詩作をしたくなるまで詩から遠ざかってみようと思ったのだ。今まで奮起して書いて来た。きっと疲れたのだろうと思ったからだ。そしてそれは功を奏し、また復活する事が出来た。しかし暫くすると急にスランプになる。

 そんな事を繰り返しながら何とか9年目に突入。そこでまた如月なりに新たな事を発見。スランプに陥る前の詩作は果てしなく強く、如月にとって満足を得る(ある程度ではあるが)作品が生まれると言う事を。つまり如月が持ってる言葉や思いを出し尽くしたと捉えられるほどスランプ前の詩は強いと感じる。そしてスランプ後、とても強い詩が生まれたりする。だから如月にとってスランプは、もっと新たな言葉を無意識下のうちに心が欲してると言うサインであり、それに答える為に言葉を貯える時期なのではないかと考える。

 その考えを裏付ける様に、スランプ後に紡ぎ出した感覚詩「◎狂」は果てし無く力強く、今までにない言葉遣いとなっている(もちろんこれで満足はしていないが)。つまり糞詰まりだった水道のホースの水が、その詰まりを突き破って出てくる勢いに似ていると思う。

 だから私はスランプに陥ったら詩作活動から手を引き、ひたすら静かに言葉が蓄えられるのを待ち、溢れ出す時を待つのだ。そして再開した時、今まで使った事がない言葉達と共に新たな如月八雲の詩を紡ぎ出す。そして思う。きっとこのスランプがなければ私は11年と言う長い年月を詩作に費やす事は出来ないと思う。

 スランプは忌むべき者だが、逆に如月にとって歓迎する者だったりするのである。
 これからもスランプとは上手く付き合って生きて行きたいと思っている。

 しかし今回の雑文はかなり自画自賛な部分を見受けるが全くもってそういう気概で書いたつもりはないので、何卒あらぬ誤解を抱かないで欲しいと心から願うばかりである。

 さて今回は、詩のスランプと、その時の心情と如月なりの脱出法を書いて来たが、次回は「詩 Vol.3 奈落」の最後に触れた「もう一つ凹む話」を書いていこうと思う。勿論それは凹むだけではなく、そこから新たな決意と如月八雲にしか書けない詩を紡ぎ出してみせると言うきっかけを与えてもらった話しである。その中に「山月記」の中島敦が出てくるので、中島敦ファンの方は少しは楽しめると思う。もちろん反感も食らいそうであるが(汗)しかしいつ、UPされるかは全くの未定である。

 何故ならば、いつUPされるのか、解らないのがこの雑文の特徴なのだから。

 次回「詩 Vol.5 隆起」を書こうと思う。

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