◎消せない携帯番号

209 2006/02/08

 これはまだ如月が専門学校モドキにいた時の話です。
 そして今でも携帯に残る、使われなくなった携帯番号にまつわる話です。

 その専門学校モドキは簿記や所得税法や法人税法の資格などの取得を目的とした寮付きの学校で、如月はそれなりに勉強したり酒飲んだりゲームしたりの日々を、送っていました。如月は元々数字の絡むものが全般的苦手だったのだけど、就職難の真っ只中の時代なだけに我が侭を言ってられずなんとか食らい付いて学んでいました。

 そんな中にそれはとてもとても綺麗なお姉さんがいました。肌の色は白く、華奢で、でも芯が強くて、ちょっとだけツンとした雰囲気を持つ、お姉さんでした。しかしそれはただの見た目だけで実際はとても優しい優しいお姉さんでした。そしてお姉さんは左腕が肩から、ありませんでした。お姉さんに聞くなど野暮な事はしませんでしたが、お姉さんを良く知る男友達が言うには、なにか細胞を悪くする病気が腕に掛かり切断したと言う事でした。

 お姉さんはとても頭が良くて常にTOPクラスの成績を収め、如月から見たらそれはもう天上人のような存在でした。たまに簿記の解らない所を教わったりして、毎回毎回その頭の回転には舌を巻き捲くりました。
 普通ならば、綺麗で頭が良くて優しくてなんて三拍子揃った素敵な女性に恋するのがよくある話なのですが、如月は恋とかそういう気持ちはなく、と言うよりも高嶺の花過ぎてそう言う気持ちが湧かなかったと言った方が正しいかもしれません。それよりもいろいろ教えてもらいたい気持ちがいっぱいでした(いやぁ〜かなり如月頭が悪かったのでその学校では、成績がヤバメで資格取れるかどうかの瀬戸際だったってのもありますが(苦笑))。

 ある時、その資格を取る為に集まったクラスで飲み会を開きました。みんなほとんどが、20代後半から30代後半で如月はまだ二十歳になったばかり。もう飲み会は飲めや歌えの大宴会になりました。そしてまだ如月は携帯を買ったばかりで、いろんな人の番号の登録をする事が嬉しくて回りに聞き巻くっていました(苦笑)もちろんそのお姉さんの番号ももらいました。しかし折角聞いたのに一回もその番号は使われる事がありませんでした。

 その飲み会から数ヶ月立った時です。
 お姉さんは体調不良で休みがちになっていきました。TOPクラスだった成績も下がり、簿記の資格で確実に大切で、配点の高い個所を学ぶ時もお姉さんは出席できませんでした。それから少し経ち、体調も落ち着いたのか、またお姉さんは戻って来ました。そして歩みの遅い如月と一緒に勉強の日々が続きました。

 そんな中、簿記の講師の先生が如月に「人に教えるのも勉強の内だ。やたらと小難しい、前受け/前払い/未払い/未収の勘定を金魚の図を使って教えてあげなさい」と言いました。簿記の内容に関してはもう忘れかけているので割愛しますが兎に角、二匹の金魚の絵を使い解り易く説明し覚える勉強法があったのです。それを如月にとって天上人であるお姉さんに教えなさいって話でした。

 お姉さんとは一つの机で勉強する事がなかった為かなりドキドキしました。極め細やかな肌にうっすらと施した化粧。とても品のある香水の匂い。物腰柔らかな受け答え。何もかも完璧でまるで古代の芸術家が作り上げた美の彫刻のような雰囲気。緊張せずにはいられない状態でした。恋心はないとは言え、如月も一丁前の男(青臭いガキでもあるけど)です。もう緊張の嵐でした。しかし勉強は勉強。お互い資格を取る為に真剣でした。

 如月は丁寧に丁寧にそして頭が悪いなりに、数少ない語彙を絞り出してどうにかこうにかお姉さんが困らない様に1時間ほど、説明と問題の出し合いっこをしながら、理解を深めていきました。そして勉強を教えるのが苦手な事による緊張と、絶世の美女を半径50センチ以内にいる事による緊張でどっと疲れた如月。お姉さんはそんな如月を見て優しく優しく、「ありがとう」ととても綺麗で掴んだら簡単に壊れてしまいそうなそんな儚さの中に宿る、可憐な笑顔と言葉を残し握手をしてくれました。

 しかしお姉さんは簿記の試験を受ける事ができませんでした。
 左腕を奪った悪い細胞が、体中に転移していたらしいんです。そして亡くなりました。

 如月は、お姉さんや資格を取る為に集まったクラスで飲みに行った居酒屋に行きました。そしてお姉さんの好きだった日本酒を独り傾け、お姉さんの冥福を祈りつつきっかり1時間静かに酒を飲みました。そうあの金魚の図を使って勉強し合ったあの1時間と同じ長さで。

 如月はあまりお姉さんとその勉強の時以外は話した事がなく、なにがお姉さんにとって、最高の手向けになるのだろうかと考えた時、頬を淡いピンクに染め静かに楽しそうに飲んでいた姿を思い出して、この方法がいいかなと思いそうしました。
 当時、酒は騒いで飲むものと勝手に思っていたのですが独り静かに飲む大切さをきちんと学んだのは、この時でした。

 死者の為に交す弔い酒。こんなに寂しく、でもまるでお姉さんと対話しているかの様な、少しだけ優しい時間。もしかしたらお姉さんがその時だけは側にいたのかもしれませんね。そして何度も何度もお姉さんの携帯番号を見詰める如月がいました。

 如月はその日から、お姉さんが教えてくれた携帯電話の番号を消していません。どんなに機種が変わろうと、「お客様のおかけになった…」とアナウンスが聞こえようとも。これを恋だとは思いません。しかし確かにあの勉強をし合った時間は私にはとても大切な時間で、確かに存在した優しい時間でした。なんとなく、そうなんとなくではありますがお姉さんの携帯番号を消してしまったらもうあの優しい時間もお姉さんの存在も消えてなくなりそうでなんだか寂しくて…。やはりこれは恋をしていたと言う事なのでしょうか。

 実は今でも解りません。。。

 そう言えば…その1時間だけの勉強したのがちょうど寒くてどうしようもなかったこんな時期でしたね。少し寒さと共に思い出して、書いてみました。お姉さんは今頃あちらでは、素敵な男性を見つけて楽しく暮らしているのでしょうか。いやきっと素敵な男性を見つけて楽しく暮らしているに違いないと思います。だってこうやってお姉さんの事を書いていても悲しい気持ちよりも、優しい気持ちになっている如月がいるのですもの。

 でもきっとそれは冬が終われば薄れ行く記憶の断片を掘り起したからかもしれませんね。そんな思いを抱きながら今日も元気に如月は、馬鹿をやってますよ、お姉さん。

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