◎10日後に世界は 10万HIT雑文

220 2006/07/12



 ◆月夜埜様の創作雑文
 :題  名 「10日後に世界は」
 :書き出し 「
最初の1行目に必ず自然を組み込んで書き出す。
 :単語挿入 「
小川」「」「やきそば」「紅茶」「世界
       「
落雷」「」「結婚」「赤いハイヒール」「とかげ(トカゲ)
       「
視線」「」「月光」「西暦
 :書き終り 「
なんらかの数字(英数字漢数字問わず)で終える。

雨は降り続いて10日目になった。梅雨の時期だというのに、豪雨を思わせる激しい雨はいっこうにやむ気配がない。沙耶の住む街には、駅の北側に護岸工事を施した小川がある。コンクリートで築かれた岸壁は4メートル近い高さがあるが、ふだん水量は少なく、川ははるか下を流れている。その小川も、今では岸壁の幅いっぱいに増水し、水はもう道路や橋まであと数十センチのところまで迫っていた。これほど水嵩を増して暴れる川を、沙耶はこれまで見たことがなかった。まるで怒れるのように岸にぶつかる水しぶきを見ながら、沙耶は言いようのない不安をおぼえた。

岸辺に住む世帯は数日前の避難勧告で、ほとんどが高台にある区の公共施設に避難しているようだった。沙耶のアパートは川からさらに北へ向かった坂の途中にあり、駅に近いスーパーへ行くには川に架かる橋を渡らなければならない。こんなになるのなら、もっと早くに買い物をしておけばよかったと沙耶は思った。ここ数日、原稿の締め切りに追われて部屋から一歩も外へ出られなかった。冷蔵庫にはもう、萎びた少しの野菜と期限の過ぎた
やきそば麺しか残っていない。大好きな紅茶も切らしてしまった。こうなったからには今日中に買いだめをしておこうと、沙耶はめったに着ないレインコートをはおり、雨の中へ出て来たのだった。

外は傘も役に立たないくらいに雨脚が激しい。すぐ目の前の信号の明かりさえ、雨でぼやけて見える。沙耶は左右の安全を確かめながら、注意深く道を渡った。温暖化によって、
世界の気候は少しずつ変化してきている。ここ数年、夏の気温がやけに高いように感じていたが、降雨についても何らかの影響が出ているのかもしれなかった。そういえば去年から、夏にスコールを思わせる夕立が降ることがあった。落雷も前より多くなっている。このままいくと、日本はいずれ亜熱帯のような気候になってしまうかもしれない。気象全体がこれほどおかしくなってきているのに、それを正面から取りざたする人はいないように沙耶には思えた。しかしそういう自分にしても、仕事に追われる日常の中で何か大きな危機の兆候をずっと見逃してきたのかもしれなかった。目に見えない場所で、少しずつ深刻な変化が進んでいて、それをだれもが見逃しているとしたら・・・・・・もしかすると、この大雨がそうした危機のはじまりなのかもしれない。沙耶は思わず身震いした。

道沿いの商店はどこもシャッターが下りている。まるで雨に閉ざされた街全体が廃墟になったかのようだ。ほどなくスーパーが見える場所まで来た沙耶は、通りに人影がないのをいぶかしく思った。数日間部屋に閉じこもっているあいだに、街の人たちは事態を見越して買い出しを済ませてしまったのだろうか。だとしたら、そもそも商品が残っているかどうかも不安だった。通りに車が走っていないところを見ると、流通自体、機能しているようにはみえなかった。沙耶は道を急いだ。

雨の中で、SEIFUと読めるネオンが煙っている。その文字にほっとして店内に入った沙耶は、ただならぬ光景に息をのんだ。いつもと変わらぬ照明が白々と店内を照らしている。にもかかわらず、そこは異様だった。食材はあちこちに散らばり、踏みつぶされ、肉や魚のトレイからは強い腐敗臭がする。買い物かごやカートは乱雑に放られ、床にはバッグや財布まで落ちていた。商品を買い占めようとした人々がパニックを起こして、事故が起きたに違いなかった。それにしても、店の側が後始末もせずに店を放置しているのはおかしい。何よりおかしいのは、ここにも人の姿がまったく見えないことだった。

得体の知れない不安に駆られて、沙耶は通りに飛び出した。雨のカーテンの向こうに人影を探そうと、必死に目を凝らす。あたりには夕闇が迫っていた。沙耶はさらに繁華な街の中心部へと人影を求めてさまよったが、街は完全に無人の都市と化しているようだった。これは夢にちがいない。わたしはきっとあまりの眠たさに、机の上に突っ伏して夢を見ているんだ――そう沙耶は思いたかった。けれども皮膚に降りかかる冷たい水の感触も、すべてを包み込む激しい雨音も、このうえなくリアルだった。沙耶は絶望的な気分にとらわれて傘を舗道に投げ出すと、ビルの壁に寄りかかった。

激しい雨のせいで暮れていく空も見えない。そういえばこの10日間、この街では
も月も太陽も、雲間から姿を現すことがなかった。自分の住む世界は、このまま降り続く雨によって押し流されてしまうのだろうか。怒れる神の洪水が地に暮らす生き物を滅ぼしたように・・・・・・。

沙耶は、聖書の創世記にこんな一節があったことを思い出した――

「主は人の悪が地にはびこり、すべてその心の思いはかることが、いつも悪いことばかりであるのを見られた。主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、『わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる』と――」

そうなのかもしれない。積もり積もった人の罪が、結局この世界を破滅へと導くのだ。あまたの生き物とその棲む世界をないがしろにして、自分たちの小さな世界にしか目を向けなかった人間が、いまその罰を受ける時が来たにちがいない・・・・・・。悲しかった。沙耶はまだ予定の半分も生きていなかった。仕事にばかり時間を取られる毎日ではあっても、沙耶にはまだ
結婚への憧れだってある。ここで終わってしまうと思ったら、とてつもなく悲しかった。雨の中で沙耶は泣いた。涙は雨に洗われ、すすり泣きは激しい雨音にかき消された。

どれくらい経っただろうか。雨のカーテンの向こうが燃えるように明るくなった。強い光に照らされて、雨粒が銀の針のように輝いている。沙耶は立ち上がって通りを見た。雨で煙っている街路の上を、二つの赤い点がゆらゆらと揺れながら近づいてくる。
「えっ、ハイヒール!?」
沙耶は目を凝らした。近づくにつれて、それは
赤いハイヒールを履いた女性の脚であることがわかった。脚は空中をぶらぶらと運ばれている。だれかが救助した女性を腕に抱えて歩いてくるのだろうと沙耶は思った。この先にはきっと救助本部が置かれていて、屈強な救助隊員が現場へ急行してくれる――そう喜んだ次の瞬間、沙耶の心臓は凍りついた。ヒールの女性を抱えていた者は、人ではなかった。言ってみれば、それは大きな「トカゲのような何か」だった。明らかなニ足歩行と体に不釣合いな巨大な頭部は、地上にいるどのトカゲよりも脳がはるかに大きいことを物語っていた。身を隠すことも忘れて、沙耶は舗道に立ち尽くした。「それ」は首を回して一瞬、威圧的な視線を投げかけたが、そのまま沙耶の前を通り過ぎると10メートルほど先で立ち止まった。そして宙を仰ぐような素振りをみせて、天に向かって咆哮した。その直後、「それ」は強い力でぐぃと引っ張られたかのように、宙に消えた。沙耶がこわごわ駆け寄ったとき、そこに女性の姿はなく、ただ赤いハイヒールの片方だけが激しい雨に打たれていた。

その後の数時間に、雨は10日分の雨量を上回るかと思うほど激しさを増した。川はとうとう警戒水域を越えて、道路にあふれ出した。沙耶はすぐさまドアの開いていた雑居ビルに避難した。ただ生き延びたいという本能に突き動かされて、階段を上へ上へと昇っていき、6階建てのビルの屋上にたどり着いた。それから、街がおそろしい勢いで水にのまれていく様子を放心したように見つめた。道路はいまや水路となって、その上をおびただしい数の樹木や家具が流れていく。ときどき犬や猫の死骸も浮かんだが、沙耶は何も感じなかった。通常の感情はとうに消えうせてしまい、ただ目の前の事態に呆然としている自分がいた。住宅街の家々は、ことごとく水の底に沈んでしまった。そこに住んでいた人たちがどうなったのか、沙耶にはわからなかった。ただ街の日常が、家や人もろとも洪水にのまれてしまったことだけは理解できた。

その日の深夜、嘘のように雨はやんだ。都市を覆っていた分厚い雲の天蓋が消えて、星空が戻ってきた。沙耶は下界を
のように覆った水の面に、月光が静かに落ちているのを見た。光が水に反射するさまを、沙耶は美しいと思った。けれども、この黒い水の下に沈んでしまった世界を思うと、耐えがたい絶望感に襲われた。静寂の中で、沙耶は壮絶な孤独と向き合った・・・・・・。

やがて東の空が白々と明けてきた。朝日が街の最も高いビルの窓を染めたその時、沙耶の前方の水面が轟音とともに盛り上がり、緑色の光に包まれた流線型の物体が水中から浮かび上がった。それは数秒間空中に止まったあと、ものすごいスピードで遠ざかり、まだほの暗い薄墨色の空に消えた。沙耶の目に、11日ぶりの陽光が朱鷺色に宿った。


西暦2006年、こうして10日にわたって降り続いた大雨のあと、世界は洪水によって滅んだのである。
                   (了)

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