プロフィール

其の1〜7

其の1   平14.2.1
私は楽器奏者になる予定でスタートしたのだが、特殊楽器であったのと、オーケストラでは殆んど出番がないのでやむなく作曲を専攻した。今は作曲家として活動中だが、合唱団を主宰してみて気が付いた事がある。それは楽器演奏の世界ではとても考えられない事である。一言では言い表せないのだが、あえて言えば音楽に対する‘謙虚さ’が無いのである。ちょっと難しい曲を演奏して良い評価を貰ったとする。それだけで つい有頂天になってしまうのである。気持ちは判らないではないが、音楽は底が深いのである。そんな事で音楽が表現出来たと思ったら大きな間違い!! しかし現実には‘合唱経験者’と呼ばれる人の中に実に多いのである。
‘合唱’とは何か? 今後はこの大きなテーマについて考えていきたいと思う。

‘合唱’とは声によるオーケストラである。一人一人の声が集まりアンサンブルを行いそれが声の厚みとなってハーモニーが形成されて初めて合唱(コーラス)となるのである。吹奏楽や管弦楽も全く同じで、声がそれぞれの楽器編成に変っただけの事である。
しかし、‘合唱’は いわゆる‘声楽’とは同じようで全く異質なものだという事である。それはどういう事かと言うと、曲を歌として表現する事が‘声楽’であり、ハーモ二ーの響きで表現していくものが‘合唱(コーラス)’なのである。だから 厳密に言えば声楽と合唱は発声法や歌唱法が違うのである。多分、納得いかない人もいるかもしれないが、そうなのである。しかし‘合唱’と言ってもいろいろあるし‘声楽’にもいろいろある。今度は、その辺りを考えていきたいと思う。

まず‘合唱’から話したいが、合唱と一口に言ってもいろいろある。先ず原点となるのが俗に言う宗教曲というもの。それから日本人の作曲したオリジナル作品と呼ばれるもの。そして古今東西の名曲を合唱に編曲したアレンジもの と大きく分けて三つある。宗教曲は単旋律のグレゴリオ聖歌から始まり、ポリフォニーと呼ばれる中世の多声音楽に到るのだが、基本的に大きな声は必要無い。それにヴィブラートは絶対に入れてはいけないものなのである。それは歌う場所からもきているが、ヴィブラートが入ってしまうと響き過ぎて何を歌っているのか判らなくなってしまうからである。つまり よく通る声で真っ直ぐに声を出さなければいけないのである。そしてレガート唱法、ブレス(息つぎ)の仕方が一番問われる歌い方である。基本的な腹式呼吸を身に付けていなければかなり難しい。
そしてオリジナル作品やアレンジものは、多少個人に癖があっても合わせる事にはそれほど困らないとは思うが、この辺は指導者によってかなり好みが出てくる様である。(ベル・カント唱法でなければ駄目だとか…) いずれにしても、本来は曲によって歌唱法を変えなければいけないのである。

次に‘声楽’についてだが、古典物については合唱と同じでノンヴィブラートで演奏する事が要求され、技術と正確さを持ち合わせ乍ら演奏するものである。そして歌曲と呼ばれる物については、オペラと違い 歌を通して詩の内容を表現する事が第一になってくる。それぞれの国の音色や歌唱法がこの曲のジャンルに接して初めて聞く事が出来る。あまりヴィブラートがかからない方が望ましいと思うが…。又 オペラと言っても古典物やロマン派・近代現代物といろいろ有り、一口には言えない。それぞれの国のオペラは本来、その歌劇の内容に合った声の出し方で歌われるべきだと思う。そして 歌劇を歌・作曲技法並びに舞台総合芸術として一躍高め、楽劇としたのは かの有名な“ワーグナー”なのである。この楽劇と言うのは、歌い手にとって歌唱力は元より歌劇の時とは違う演技力も求められるのである。これも‘声楽’の中に含まれる事だと考える。そして歌曲を歌う時とオペラを歌う時の根本的な違いは、声量である。当然これは歌われるホールの広さや演出の違いから起きるものである。

ざっと‘合唱’や‘声楽’の違いを書いてみたが、簡単にまとめてもこの位になってしまう。やはり音楽とは奥が深く一生勉強し続ける物である事が判る。
これからは、合唱を通して音楽の原点とは何かを考えていきたいと思う。

其の2  H15.1.11 
“鐘の音”も結成して十年、これからが本当の鐘の音サウンドが出せるものと 私は期待している。
ところで、<合唱>というものは何なのか… という事を最近よく考えてしまう。合唱は最早 日本の文化と言って過言ではないが、何か今ある姿に納得いかないものを感じている事も また事実である。
難しい話ではないのだが、合唱という音楽のジャンルそのものの曖昧さから来ている様である。合唱そのものの説明は以前に書いたが、ハーモニーの持つ素晴らしい響きを感じ取る感性が、指導者には求められるものと思う。指導者の中には、声を出すものの中でオペラこそ最高の芸術だ と考えている人がいるのではないだろうか…。そんな事は無い筈で、合唱も立派な芸術作品である筈だ。作曲家としては そう考えてもらいたい。

主宰しているからではないが、“鐘の音”サウンドにはアマチュアとしては かなり良いハーモニーが奏でられてきた様だ。プロとは違っていろんな音楽の楽しみ方が出来るのがアマチュア、可能性に挑戦する事が出来るのがアマチュア合唱団の魅力でなければならない。一人一人がしっかりと技術を磨く事で成り立つのが合唱(吹奏楽・オーケストラも同じだが…)である。本来ならば楽しく練習に参加しているのが当たり前なのだが、指揮者のためだけに活動している団も在る様である。義務感でやるだけでは素敵なハーモニーは出てこないし、聞く方も退屈なだけだ。 やはり楽しくなければ…!
吹奏楽の世界も同じ様な問題と言うか 悩みがある様だ。特に教育現場に多く見られる。元教師としては大変心が痛む現象である。しかし現実は 理想とはかけ離れているのが今の姿。指導者が育てていかなければ、音楽の楽しみが持てない世の中になってしまう…。そうならないために“鐘の音”は在る と自負している。
曲目からは想像出来ないくらい未経験者が多いのだが、しつこく練習する事によって音楽の持つ奥深さが出せる様になってくる…、本当に不思議だ。(チョッと親バカみたいかな…?)

三年前から同じ地域で活動している混声合唱団を指導し始めた。ここは“鐘の音”と違い指導のみだが、基本は一緒で‘楽しみ’である。これがなければ技術も団も向上しない。その結果、昨年の9月に女声コーラスとのジョイント・コンサートを開催する事が出来、成功裡に終了した。今も指導継続中である。 指導し始めて、客観的に“鐘の音”を見詰める事ができたのも、この三年間の私の成果である と言っても過言ではない。

‘楽しみ’というテーマ。それはアマチュアには大変難しいテーマだが、団にはプロ・アマの差があっても音楽の持っている‘追求’というテーマとは 切っても切れない間柄。そこで起きるのが曲目選択で、技術の平易な曲で練習するのが‘楽しいコーラス’なのか、超絶技巧の曲を練習し追求するのが‘楽しいコーラス’なのか…。一つの価値観にする必要はないが、我“鐘の音”は それを両立させるべくして結成した団である。
今 練習に励んでいる団員は、それを体感し実感している人達だと自負している。試してみたいと思った人は、いわゆるレベルなど気にせず、声楽とは違うハーモニーを追求したい人は、遠慮なく見学に来てみて欲しい…。この感性は私が決めるのではなく、演奏者(団員)らが決めるものですから…。

人間の心を揺さぶる事の出来るハーモニーを目指していくのが、アマチュア合唱団の求めるべき姿だと信じている。
其の3   H15.6.11
“鐘の音”の十周年記念コンサートが終了した。
合唱というものの可能性を追求して早10年、この横浜の青葉区に定着し 且ついろいろな合唱団が誕生してきている。
この十年間で感じた事は、合唱も勿論だが‘音楽’を本当の意味で楽しみ活動している人は、いったいどの位いるのだろうか…という事である。

ところで、‘プロ’と‘アマチュア’の違いは一体何なのか。最近『語りと音楽』というテーマで、この点について作品を書く機会が有った。‘プロ’は他人に奉仕する事が仕事であり、‘アマチュア’は自分を愛し自分の為に努力する事が出来る存在である、と ある著作者は言っている。確かにその通りである…。だからこそ プロは高度な技術が必要にもなってくると…。 では、アマチュアは技術がたとえ無くても自分の為にだけ努力すれば通用するのだろうか…。とても曖昧で 結論の出しにくい問題である。
私はこう考える。プロというのは、人間の本質を音楽で表現しなければならない存在の為、音楽でしか評価してもらえない存在である。だからこそ、他人に評価してもらわなければ意味の無い存在となってくる。
アマチュアは違う。自分のやりたい事を 自分なりに追求出来る存在だと思う。そのものの本質を見極める目を養う技術は必要だが、自分の考えた可能性を選択する自由がある。これはある意味、他人の入り込む余地が無くなってくる訳だが、これが アマチュアの陥る状況である。つまり、自己満足という事になってしまうのだ。そうなると技術の進歩など望めそうに無い、それこそ只の余暇活動になってしまう。
やはり、アマチュアと言えど 技術が無ければ何も生み出す事は出来ない筈である。

“鐘の音”の団員は、アマチュアとは言うものの ようやく演奏家らしくなってきた。音楽の持つ難しさや優しさ、そして奥深さから来る人間同士の触れ合いに接する事が出来る喜びを、感じ取ったからに他ならないだろう…。素晴らしいの一語に尽きる。
これからの鐘の音が 楽しみである…。
其の4   H15.9.14
先日、関わっていた吹奏楽団の定期演奏会や知人の娘のコンサートが有り 聴きに行ってきた。演奏そのものは大体想像していた通りだったが、“演奏する事とは何か…?”という事を改めて考えさせられてしまった。
オーケストラ・吹奏楽・合唱 etc. どれを取ってみても、演奏する事とは 譜面から何を感じどう表現していくかが大切である訳だが、音や声そのものに意識が行ってしまい、肝心な音楽を表現する事の大切さが失われている様に思えて仕方がない…。つまり 演奏がつまらないのである。
勿論、之とても私の主観に過ぎない事なのではあるが、本来の音楽が持っている“癒し”的なものは、どこかにフっ飛んでいってしまっている点にある。要約すれば、良い音や良い声で演奏すれば“良い音楽”が生まれると信じ込ませようとしている事に 端を発している。
この点についてだけは、私の音楽家としての琴線に触れる事なので、どうしても納得がいかないのは事実である。
‘音楽家’として活動する人は、もっと音楽を理解する事に努めなければならないだろうと考えている。(当然 私も含まれる。)

この様な現象が起きる原因として、プロの人達の他業種交流が行なわれない点にある。どういう事かと言うと、楽器の演奏者は楽器の演奏者同士で オペラ歌手はオペラ歌手同士で とか、この様な事が下地にあり ピアニストも伴奏者ではなくソリストでなければ一流ではない…!! という様な価値観が生まれ、プロ同士でも交流が途絶えるのである。更に オペラ歌手というのは 合唱をする人とはランクが違うので、合唱をする歌い手はランクが下だ…!! という価値観が今でも存在しているのだ。
一見して判る事なのだが、ソロとアンサンブルというのは演奏法が違う為 比較が出来ない・しないのが当たり前なのだが、どうも日本ではこの様な価値観が歴然と存在する。実にバカバカしいし情けない…。
プロの世界でこんなザマなのでアマチュアの世界は押して知るべし… である。
話が逸れてしまったが、交流が無いから 実に狭い音楽観の上に立って演奏をしている事になる。演奏には多種多様な価値観が含まれる事によって、広く浸透し 広がり 文化として定着するものと信じている。
そのために、一般の人に広い価値観を提供し 感じてもらわなければ意味の無い話になってしまうだろう。
作曲者は“譜面”にどんな思いを託したのか、その思いを汲み取り演奏家が表現していくのが‘プロ’であり、その思いを技術ではなく 心意気として挑戦していく人達こそ‘アマチュア’の真髄であると考えている。
其の5   平 16 2.3
昨年の6月に“鐘の音”のコンサートを行なって 早八ヶ月、音楽表現の一つである 合唱 というものに、本当の意味での理解を得る事を目的としてきた集大成が 3rd. Concert だった訳だが、この目的は ほぼ達せられたと感じている。この事実は、観客はもとより 団員相互間における演奏意義・目的等を経験していく事によるものだろう。

“アマチュア”とは…? 前から書いているのだが、私は 決して素人集団という定義付けはして欲しくない。
“プロ”とは 一種の奉仕者であり、宗教者的な要素を持って演奏しなければ、音楽を通しての表現者にはなれないと感じる。つまり、作曲者の意図を通して具現化される人間の営みを表現する事、が仕事だからである。それだけ自分の音楽性を追求する事が要求されるし、限界に挑戦する活力と 己を知る勇気を併せ持たなければ、プロとしては活動出来ないだろう…。厳しい 自己表現者としての自覚がいる。
一方 アマチュアと呼ばれる世界は極めて曖昧な世界だが、一般の人と より近い所にいる表現者として活動出来る人達である。しかし 音楽の表現者になるためには、少しずつ勉強しなければいけない事も確かであり 間違いの無い事である。意識はプロの人達と近いはずであろう。
結論から言えば、アマチュアの人達は 音楽を楽しむためにやっている訳で 義務でやっているのではない。だが、そこには音楽に対する真摯な態度がなければ、演奏する次元には到達出来ないだろう。技術が劣る分 心意気でやらなければ、思い上がった演奏になってしまう事は否めない。
アマチュアは、プロとは違う接点で 音楽を表現していけば良いと思うのだが…、如何なものだろう…。

ところで、何故これほどまでに 日本ではアマチュアのオーケストラ・吹奏楽団・合唱団 が在るのだろうか…、不思議な事である。
これほど沢山の団体が存在し、尚且つ 指導者もいる訳であるが、何故 日本では文化が定着しないのであろうか。ここには厄介な問題が存在するのだ。前にも少し書いたのだが、音楽家同士の中が あまり良くない。つまり、自分の領域を侵されたくない事と無縁では無い様だ。平たく言ってしまえば、自分の表現する場が欲しいという事である。職業音楽家は、今 町に溢れている。自分の存在を発現する場を求めて・生活する場を求めて、アマチュアの団体を創る事になってしまうのだと思う。
これは悪い事ではないが、自分の為ではなく もっと広い意味での音楽を表現していかなければ、ただの‘趣味の団体’に成り下がってしまう。現在の指導者は、心せねばならない時だと感じている。
更には、異業種交流をもっと行なわないと、音楽の深みを感じる事から遠ざかってしまう事に成りかねない。吹奏楽は吹奏楽、オーケストラはオーケストラ、合唱は合唱 という様にである。だから、合唱指揮者は オーケストラは振れないし、管弦楽曲を振る勉強をする人は、吹奏楽で手鳴らしするし… という現象が出てくる。特に合唱を指導する人は、指揮法を勉強しないといけないと感じている。小編成のオーケストラなり吹奏楽を振れる位の技術を、是非持ち合わせて欲しいものである。残念ながら、それが出来る人は まだまだ少ない。残念な事と感じている。

これから どんな音楽の世界が広がっていくか見当が付かないが、何れにしても 音楽の原点を見つめた作・編曲 演奏活動を、私個人はしていくつもりである。また それしか私には出来ないのではあるが…。
其の6    平16.4/29
教師を辞めてから21年目に入った今年度、音楽を取り巻く環境が 20年前と比べて変化してきていると思う。 先ず感じる事は、“音楽”というものの捉え方に 少々違和感が有る。
具体的に言えば、“音楽”をする事で 演奏者も聞く方も癒され楽しめなければならないのに、最近ではそこに余分な義務感の様なものが介在してきている点にあるのだ…。
ただ 演奏する側に於ける義務(真摯に取り組む姿勢)は怠ってはならないが、そこには“感動する音楽”を創作・体験する為に必要な事であって それ以外の何ものでもない筈なのだ。
<音楽の原点>とは、そういうものなのではないか… と私は考える。

“プロ”と“アマ”の違いの様なものは、過去に何回か書かせてもらったが、“音楽”の本質に プロとアマの区別は無い、有ってはならないと考える。有るのは 演奏する技術の差くらいだと思う。
しかし最近は、この事をプロもアマも あえて掘り下げようとしないのが現状である。プロにとってこの事を追究しようとすれば、結果として生活に困窮する場合も出てくるし、アマにとっては良い隠れ蓑(少々乱暴な言い方だが…)になっているからだ。ただ私も音楽家の端くれ、理解出来ない訳ではない。

何故日本では、これほどの音楽団体(プロ・アマ含めて)が存在するのか…。個人的に感じる所は、どの団体を取ってみても それ程特徴が無いのが特色になっている点だ。
昔であれば、「この作曲家の音楽は 某オケで某指揮者のサウンドが心に残るネ!」とか、「フランスものは この指揮者でこのオケの組合せに限る!」、「モーツァルトは このオケの音に勝るものは無い!」という様にである。 解り易く言えば、原点は一緒なのだが 一つその団体の特色を演奏に繁栄させるかさせないか の違いである。
昔の外国オケは、自国の音楽(作曲)家が演奏者と非常に密接に関係し 且つ誇りにしていたので、その曲を演奏した時には、とてつもない感動に巡り逢ったものである。
勿論、演奏される音楽に差が出てしまう事態に問題はあると思う。しかし音楽は生きているのである!
国民性・民族性の違いから生じる音楽の差というものは、むしろ肯定的に捉えていかないと、“音楽”を良し悪しで捉えてしまう事になりかねないのではないだろうか。何か 世界標準みたいな様な音楽が出来上がってしまう、そんな画一的な価値観が生れてしまう様な気がしてならない。

今 アマチュアのオーケストラ・吹奏楽団の団員募集の広告が、ホームページ上を飛び交っている。しかしどの団体も中々人が集まらない様である。アマと言っても特徴が無いのだ。
有名なアマ・オケの活動方法も、プロと同じ様な事をやっているのが現状だろう。勿論それも有って良いのだが、もっと何かアマチュアでなければ出来ない事を活動して欲しいと考える。思うに アマチュアの団体を指導していくには、プロの活動経歴では指導しきれない事が生じると私は考える。つまり 特別な指導能力が必要と見ている。だから画一的な団体しか出来ないのでは…? と考えるのは、私だけだろうか。
合唱の世界も、同様な事が起きていると言っても過言ではないだろう。

<感動する心>というのは、音楽に取り組む姿勢で生れてくるものだと思う。練習に出て学んでいかなければならない事は勿論、その譜面に書かれた事を練習によってどこまで汲み取っていけるかが 音楽表現の一番大切な事であり、それにより 音楽を伝えていく事が出来るのではないだろうか。
‘練習’と‘本番’の音楽が違うのは、そこから生じ出てくるものが 聞く人がいるといないとで分かれ、伝えていく事柄も違うからであろう。“場の心”のキャッチボールが出来なくては、本当の意味での音楽にはなるまい。 私は そう信じて20年が過ぎていった様な気がする…。

今、教育現場における文化活動の在り方が問われている。部員がいても顧問の成り手がいないのだ。いや 「やろう!」と言う 意欲ある教師が減っている事にも起因している。これは 学校現場に高齢化の波が押し寄せているからだが、少子化による新採用教師を減らしている事に因るものだろう。
20代の若い教師が、学校現場から消えていっているのである。下手をすれば、40代が一番下の年零層という事態になってしまうのだ。
一般社会から言えば、30・40代は子供を抱えた家庭では一番大事な時、休日返上で部活を見れない環境に在る事も事実で、必ず出て来て部活指導しなさい! とは言えないのも現状である。
果たして、これで若者の創造活動が出来るのであろうか…? 一方でコンクール至上主義が存在するのだ。
ねじれ現象の中で、子供達は もがき苦しんでいるのである。
プロの世界はプロの世界で考えなくてはならない事が有るが、今後は アマチュア団体の占める役割は大きくなるものと理解している。
だからこそ、<音楽の原点>を忘れずに活動する事が 大事となってくるのである。
其の7   平16.8/10
“吹奏楽”という言葉で呼ばれる様になったのは、いつ頃の事なのだろうか…。私が中学生の頃 呼ばれていた部の名称は、“ブラスバンド”部であった。吹奏楽とブラスバンド 一見中身は違う様なのだが、どうも同じ様にも見える。個人的には、勝手に“吹奏楽”は米国式で“ブラスバンド”は英国式と分けている。しかし、米国式の吹奏楽は“ウィンドブラス”と言うし…。 果たして この使い分けに何か意味が有るのだろうか、私には判断が付きかねる。

英国式のブラスバンドは、非常に柔らかく暖かいサウンドである。ザクソルン属と呼ばれる楽器を揃え オルガンの様な響きで音楽を奏でる、ぞくぞくする響きが特徴である。日本では非常にマイナーな英国式であるが、個人的には何としても創ってみたい種類の音楽である。米国式よりも 心の内が求められる音楽で、非常に奥が深いと感じる。勿論 米国式がそうではないと言っている訳では無いのだが、出来てくる(求める)サウンドが違うのだと感じる。合唱で言えば、オリジナル作品と宗教音楽の違いとでも言うのだろうか。ジャズの世界で言えば、グレン・ミラー(白人)とルイ・アームストロング(黒人)の違いとでも言おうか…、音楽 色々である。

吹奏楽コンクール 今がその時期に当たるが、A編成(50人以内)が少なくなり、B編成(35人以内)が増えている。種類は、中学・高校・大学・一般の部に分かれるが、年々競争が激化してきている様である。合唱もそうで、“鐘の音”の団員で大学生がいるのだが、先日4大学合同のステージが有り 聞きに行ってきた。やはりレベルは相当高く、想像していたより遥かに素晴らしい出来であった。サウンド創りはバツグンに良く、聞いていて気持ちが良い。しかし、事 心に残る演奏かと言うと、残念ながらそうでは無い様な気がしている。テクニック重視になってしまうのだ。
吹奏楽も同じで、コンクールの様な場面では素晴らしく聞こえるが、演奏会という場面では 今一つ物足りない気がする団体・部が多い。
“心”を置き忘れてきた音楽を目指した教育結果なのかもしれない…。残念だと思う。

音楽の世界に入って20年、ここのところ“音楽”に やり切れなさを感じているのは、果たして私だけだろうか。 皆さんどうですか…?
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