ヒトミの飼育日記 2000年3月
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3月2日(木)
目が覚めたら、2日だった。
いや、正確には、
待ち合わせ場所にいつまでたっても現れないひとみの携帯に連絡をいれて、
初めてそれを知ったのだ。
どうやら一度も目を覚ますことなく28時間、眠ってしまったらしい。
・・・
・・・ ??
彼女は、悲しそうに怒った。昔と同じように。
明後日の午後に約束をし直し、電話を切った。
ヒトミがやけに甘えてくる。
部屋にいる間中何をしていても、まとわりつく。
少し強く怒った。
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3月3日(金)
ヒトミ
体長 10cm(触覚?含む)
体重 105g
体毛
口の方から、朱、黄、灰色 の3色
長さ1〜2cm
腹部分の体毛が、背部分の体毛より短く細い
形状
幅1cmほどの亀裂のような口
底面の直径1cm、高さ1.5cmほどの逆さ円錐状の四肢
前足の間に直径1.5mmほどの、赤い突起物が2つ
頭部分より、5cmほどの長さの触覚のような毛のカタマリ
目、鼻の存在は、確認されていない
鳴き声
チーチー、チークチーク、チチッチチッ
移動速度
秒速 4〜20cm
時折、移動できるはずもない所に、忽然と現れる
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3月4日(土)
ひとみを抱いてしまった。
・・・二人は、本当に許しあう事ができるというのだろうか?
ヒトミに変わりはない。
楽しそうに、身体を揺らしながら歌番組を見ている。
時折、チーチーと鳴くのは、歌っているつもりなのだろうか。
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3月5日(日)
K から連絡があった。
近くの喫茶店でおちあって話をした。
彼の調べたところによると、スウェーデンの学術書に、
ヒトミによく似た生き物の記述があるらしい。
昨日、インターネットを通じて購入をしたので、1ヶ月ぐらいで手元に届くそうだ。
どのような内容なのかは、まだ、Kにもわからない。
ひとみのことは、話さなかった。
ヒトミがあんなに嫌がっていた、牛肉を食べた。
嗜好が変わってきたらしい。
足の先端が角質化してきた。
素肌に乗られて動かれると、少し痛い。
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3月6日(月)
夢を見た。
・・・息苦しさを感じて、目を覚ますと、
体長1メートルほどに成長したヒトミが、胸の上に乗って、こちらを見下ろしていた。
やはり目があるわけではないのだが、強烈な視線を感じるのだ。
亀裂のような口をゆっくりと開くヒトミ。
信じられないほどに大きく開いた口の中は、
鮮やかに赤く、
奥まで小さな尖った歯がびっしりと生えていた。
ゆっくりと迫ってくるヒトミの口。
目の前が暗くなった後には、
頭蓋骨を噛み砕く音の混じった、咀嚼音だけが聞こえ続けた。
現実の世界に戻ると、
ヒトミは、いつもの通り、枕の横で丸くなって眠っていた・・・
露店で見つけた不思議な生き物、ヒトミ。
おまえはいったい、なんなのだろう?
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3月7日(火)
それぞれの家でネズミに対する警戒が強まったためか、
ネズミ同士の共食いが始まったようだ。
今日だけで、2匹のネズミの死体を道端でみかけた。
腹を食い破られているもの、首がもげかかっているもの、
衛生的な問題だけでなく、
何よりも町の雰囲気が陰気になる。
どうしたものか。
ネズミが狂暴化しているとすれば、
それだけヒトミも危険だということだ。
この家も、あれから3日に一度の割合で、
台所をネズミに荒らされている。
一昨日などは、ヒトミのために買っておいたポッキーが、
食い荒らされていた。
遅れ馳せながら、この家にもネズミ用の罠を仕掛けるようにしよう。
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3月8日(水)
I から電話があった。
あの、足の長い甲殻虫を飼っていると言う。
本当だろうか。
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3月9日(木)
I のことを K と相談。
私からコンタクトを取ると、
ヒトミを見せろと要求してくるだろうということで、
まずは、K が探りを入れることに決定。
やはり、あの甲殻虫のことは、気になる。
ヒトミに新しく、深い紺色のリボンを買って上げた。
少しおねえさんぽくなったか。
そういえば、この前会ったひとみも、
前にはとても着そうになかったような、シックなワンピースを着ていた。
今ごろ何をしているのだろうか。
・・・逢いたい。
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3月10日(金)
昼間約束を取り付け、
夕方から一時間だけ、ひとみと逢う。
確実に惹かれている。
彼女の微笑は何にも変え難い。
愛しているといってはいけないだろうか・・・
ヒトミが、ここ数日肉ばかりを食べる。
体長もそれに合わせて、おおきくなっているような気がする。
成長期なのだろうか。
どれくらいの大きさになっていくのだろう。
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3月11日(土)
この頃、あまりしっかりかまってあげていなかったので、
今日は、ヒトミを車に乗せてドライブをした。
ダッシュボードにのせておくと、じっと外を見ている。
助手席に座らせる(?)と、
カーステレオから流れる音楽に合わせて、身体を揺らしている。
車を止め、土手で日向ぼっこをした。
夕焼けは、赤かった・・・
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3月12日(日)
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3月13日(月)
K が事故にあった。
夜中にコンビニに夜食を買いに行く途中に、バイクで転倒したのだ。
幸い命に別状はなかったが、大腿部骨折等々で、全治2ヶ月。
しばらくは入院生活だそうだ。
連絡を受けたのがPM11:30、
病院に駆けつけてあれこれしているうちに、夜が明けてしまった。
K いわく、
バイクを走らせている途中で、ふと意識がなくなり、
気が付いたら、バイクがすっ飛んでいて、
自分の足があらぬ方向に曲がっていたそうだ。
これで、I の甲殻虫の調査は、
自分でやらなくてはいけなくなった。
さて、どうしたものか。
ヒトミの肉好きは、まだ続いている。
体長は、13cmを超した。
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3月14日(火)
肌を合わせるほどに、不安になる。
ひとみは、自分の気持ちを語らない・・・
ヒトミの肉好きは、深刻だ。
偏った食生活に不安を覚え、野菜が中心の食事を与えた所、
ジージーと凄まじい声で抗議をし、
少しも食べるそぶりを見せない。
今夜は食事抜きだ。
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3月15日(水)
ヒトミが動かなくなった。
体毛の色が変化した、前回とまったく同じ状態だ。
3回目なので不安はないが・・・
ひとみにヒトミのことを話すべきか否か。
彼女は、この不思議な生物を、許容できるであろうか。
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3月16日(木)
今日もヒトミは動かない。
いつも通りだ。
今朝、台所にしかけた粘着パッドに、
体長18cmほどの大きなネズミがかかっていた。
こいつがこれまでの、食い荒らしの犯人か。
見つけた時にはまだ生きていて、チュウチュウと鳴いてもがいていたが、
そのままゴミ袋に入れ、生ゴミの回収に出した。
比較的冷静に始末をしている自分の冷淡さに、少し驚いた。
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3月17日(金)
ヒトミは今日も動かない。
これで三日目。
動かないヒトミを見つめながら、いろいろなことを考えた。
ヒトミへの愛情のこと。ひとみへの思いのこと・・・
ひとみが現れてから、以前のようにヒトミを愛せなくなってしまった。
ヒトミを可愛がっていると、ひとみのことを考えてしまい、
ヒトミに悪いような、ひとみにすまないような複雑な気持ちになり、
つい訳も無く辛くあたってしまう。
ひとみとヒトミを無意識のうちに同列に考えてしまっているのだろうか。
バカらしい・・・
何を考えているんだ。
ひとみに連絡を取り、また明日会うことにしよう。
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3月18日(土)
ひとみに連絡が取れない。
電話も携帯もまったく通じない。
ヒトミも動かない。
もう4日目になる・・・
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3月19日(日)
K の容態が急変した。
ひとみには連絡がつかない。
ヒトミはまだ動かない。
現在の体温は、38.5度。
世の中に、良いことは、一つも無い。
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3月20日(月)
病院から帰宅後、見ると、
ヒトミの毛が全て抜け落ちていた。
体の表面も、皮膚が硬質化しており、
濃いベージュ色になっている。
もちろん、動かない。
耳をつけると、かすかな鼓動が聞こえるので、
死んではいない様なのだが・・・
これは、さなぎなのか・・・
K の容態は、安定はしたものの、
まだ、予断を赦さない状況だそうだ。
現在の体温は、37.8度。
頭痛が激しい。
今日3回ほど、数秒間、意識がなくなった。
ただ、その間も、普通に行動は、していたらしい。
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3月21日(火)
ヒトミはすっかり、さなぎ化してしまい、
少しも動き出す気配がない。
今回は、長期戦になりそうだ。
ヒトミの大好きな窓際に、暖かい毛布で座布団を作った。
そっと、ヒトミを座らせる。
ゆっくりとおねむり・・・
そして素敵な姿になって、出ておいで。
現在の体温、37.4度。
今日は3時間の昼寝をした。
食欲は落ちない。
晩に、300グラムのガーリックステーキを食べた。
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3月22日(水)
ヒトミがまるで置き物のように動かなくなってしまうと、
いかに、日常が、ヒトミを中心にまわっていたかがわかる。
いっしょに遊ぶこと、ご飯の用意、
たとえ他の事をしていたとしても、
傍でボールと戯れていたりするヒトミを、常に意識していた。
ヒトミは、動かないもののそばにいるのだから、
寂しいというのとは少し違う・・・
有るべきものが無い違和感の用なものか。
現在の体温、37.3度。
食欲が止まらない。
昼間からケンタッキーを8ピースも食べてしまった。
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3月23日(木)
K の病院に見舞いに行った。
すでに意識も戻り、食事もまともにとれているようだ。
ただ、まだ声に力が無く、
あの、豪快でよく響く笑い声は聞けなかった。
いまのヒトミの状態を告げると、とても会いたがったが、
ここに連れてくるのは、はばかられる。
写真を撮ってもって来ることを約束した。
現在の体温、37.7度。
少しだるいだけで、体調は悪くない。
食欲だけが異常だ。
3食の他に、4時に大盛りラーメンと中華丼、
夜食に、パスタを500グラムとサンドイッチを食べた。
その他にも、ひっきりなしに菓子を口に運ぶ。
体重は、変わらない。
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3月24日(金)
気が付いてしまった。
ヒトミの今の皮膚の色と、質感は、
あの、甲殻虫にそっくりではないのか?
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3月25日(土)
ヒトミの身体のすみずみまでよく調べてみる。
節くれだったあの足が生えてくる気配は、今のところない。
皮膚は似ているものの、形状は全くの別物なのだから、
私の気のせいなのだろう。
きっと、そうなのだろう・・・
現在の体温、38.0度。
もうすっかり熱があるのが普通の日常になってしまった。
だるさもすでにほとんどなく、昼間に1時間ほどの昼寝をすれば、
日常の生活に支障はない。
異常な食欲だけは、相変わらずだが・・・
ひとみのことを、考えるのはしばらく止めておこう。
そうしないと、気が狂いそうになる。
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3月26日(日)
やはりそうなのか・・・
皮膚の色がだんだんと濃くなってきた。
ゴワゴワと硬い皮膚、動きにくい。
気がかりなのは、眠っている間にヒトミがさなぎから孵ったときのことだ。
おやすみなさい。
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3月27日(月)
目が覚めると、枕元でヒトミが鳴いていた。
さなぎになる前の、三色の体毛や、チークチークという鳴き声も、元通りだ。
ヒトミを置いていた毛布に、膿のような黄色い汁がべっとりと付いていた。
周りを見回したが、特に抜け殻らしい物はないので、脱皮したという訳ではないようだが...。
体調はすっかり元に戻った。熱も下がり、食欲も通常通り。
この一週間の変調は、一体なんだったのだろうか?
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3月28日(火)
あまりの寝苦しさに目を覚ます。体が灼けるように熱い。
寝ていた布団が、ぐっしょりと濡れていた。
昨日、ヒトミを置いていた毛布に付いていたのと全く同じ、黄色の膿だ。
ひどい悪臭のため、あわててシャワーを浴びる。
もう、この布団は使えないだろう。
おとといに感じた皮膚の角質化といい、今日の膿といい、
ヒトミの変化に自分も同調しているというのか?
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3月29日(水)
ヒトミは、前と何も変わらない。
本当に、何も変わっていないのか?
ひとみから電話があった。
明日、会おうということだった。
ここ数日間のことを問いただしても、
話をはぐらかし、要領をえない。
K のところへ、明日行こう。
彼と話して、少し気持ちを整理したい。
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3月30日(木)
ここ数日間の出来事を、K に話した。
K は黙って聴いていたが、最後にこう言った。
「とにかく、ヒトミもおまえも、無事でなにより。」
そして、あのよく響く大笑い。
K の体調も良いようだ。
今日はぽかぽかと、本当に良い日よりだ。
ひとみと会い、いっしょに通っていた高校の近くの公園を、
ぶらぶらと散歩する。
ここ数日間のことは、なんとなくどうでもよいような気になり、
特に詮索はしなかった。
とりとめもない話しをしながら2時間、幸せなときをすごした。
想い出のある、スパゲティー屋でいっしょに夕食をとり、
手をふって、わかれた。
帰宅し、ドアを開けると、
ヒトミが飛び掛らんという勢いで、奥から走ってきた。
抱き上げ、頬擦りする。
ぽわぽわとした毛が、頬をくすぐる。
すこし涙がこぼれた・・・
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3月31日(金)
少し気になることがあり、ヒトミの身体をよく調べた。
体毛に隠れてわからなかったが、
どうやら目のようなものを発見。
直径 3mmほどの円形で、まぶたのようなものは、見当たらない。
ラピスラズリのような、綺麗な青色の瞳だ。
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