ヒトミの飼育日記  2000年8月
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8月1日(火)


AM 8:00。
すでに、Y くんは欅の下に立っていた。
右手に籠のようなものを持っている。
軽く会釈。


「さわってみてください。」


小指のない左手を差し出す彼。
そっと、ふれてみる。
・・・あった。
左手の小指はそこに存在していた。
ただ見えなかっただけなのだ。
ということは・・・

彼の持っているからっぽの籠のなか、
しかし、それは確かに存在していた。
透明な、見えない小動物。


「たろうです。」


ちょっと困ったような、
けれども、少年らしい笑顔で、
彼は、紹介した。



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8月2日(水)


昨日はあれから、
体育館の入り口の階段に腰掛けながら、
午後まではなし続けた。

春休みにでかけたフリーマーケットでの、
たろうとの出会い。
売っていたのは、
顔中にピアスを付けた、わかいお兄さん。

初めてのシンクロで学校を休み、
無遅刻無欠席に傷がついたこと。

つい、一週間ほど前、旅行先の川でおぼれ、
気がつくと、そこには、
何事もなかったように岸に佇んでいる自分と、
見えなくなっている小指、
そして、小さくなっているたろう・・・

完全に見えなくなったのは、
3度目のシンクロのとき。
それまでは、軟式のテニスボールのような、
ぷよぷよとしたカタマリだったそうだ。

I と甲殻虫のことは知らなかった。
無言電話も彼ではなかった。
では、誰が・・・



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8月3日(木)


昨日、ウチに帰ってから、
ぼんやりと考えるばかりだ。
日常は、平穏に過ぎて行く・・・

ひとみのことについて、少し話そう。

あれからも何回か、電話で連絡はとっている。
あってはいない。
別に避けているわけではなく、
お互いのタイミングが合わなかっただけだ。
お互いの、タイミングが、合わなかった、だけだ。
おたがいの、たいみんぐが、あわなかった、だ、け、だ・・・

以前のように、彼女にのめりこめない。
愛してはいる、それにかわりはない。
ただ・・・

どうしても知りたいことにふれられないまま、
二人は続けることが、できるのだろうか。



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8月4日(金)


明日、ひとみと会おう。
そうしよう。



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8月5日(土)


激しく、静かな問詰めに、
ひとみはうつむきながら涙をこぼした。
ゆっくりと外した包帯。

やはりそうだった・・・
彼女の左手の小指は、
濃茶の、
甲殻に、
覆われて、

た。



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8月6日(日)


昨夜、
ひとみの小指の事実に、打ちのめされたまま、

とあるサイト のオフ会に参加した。

楽しげに談笑する人々のなかで、
ぎこちなく笑うことしか出来ない。
いくら飲んでもまわらない、アルコール。
いっそのことペプシをたのもうかと思ったぐらいだ。
はしゃぐ主催者、笑う友人たち。
アンナコトさえなければ、楽しかったはずの空間、
今、心はここにいない。


ひとみ、
おまえは、甲殻虫を飼っているのか。
あの甲殻虫とシンクロしているのか。
一緒に暮らしているというのか。
あの、甲殻虫と・・・

自ら望んだことはいえ、
知りたくなかった、
いや、確信したくなかった事実を、
知ってしまった今、
このまま、ひとみを、愛しつづける、自信が、ない。


居場所のなさを感じつつも、
二次会のカラオケにも参加。
ボックスのすみのほうで静かにしていると、
何人かの参加者が、
心配をして声をかけてくれる。
やさしい人たち、
ありがとう、
少し、前向きに考える、
ちからが出ました。



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8月7日(月)


明日からを生きるために、
今日は、向き合わなければならないことたちを、
忘れてすごそう。

ヒトミを自転車のカゴに入れ、
ぬける青空のもと、
キラキラと光る入道雲に向かい、
ぐんぐんとペダルをこぐ。
あの、川のかわらまで。

はしゃぐ子供たち、
微笑む大人たち。
あふれるばかりの幸福のなか、
ヒトミと水遊び。
相変わらず、プカプカと浮かぶヒトミ。
子供たちのたてる波にゆらゆらとゆれている。
2本の触覚をつかい、進もうとするが、
上手くいかずに、むなしく水を掻くばかり。
そのしぐさもほほえましい。

突然の稲光と激しい夕立に、
慌てふためく人々。
どしゃぶりのなか、
ゆっくりと、ゆっくりと、
自転車をこぎ、家路につく。



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8月8日(火)


ヒトミと並んで、昼寝をしていると、
唐突に玄関のチャイムが鳴った。
半分以上ねぼけながら、
覗き穴をのぞく。


「こんにちは、D生命です。
ただいまキャンペーンを行なっておりまして、
アンケートに、お答え願えないでしょうか。」


・・・目が覚めるような美人だ。
文字通り、目が覚めた。
少し年上だろうか、
白いブラウスを押し上げている豊かな胸元が、
夏の日差しにまぶしい。

アンケートに答える。
説明を受けながら気がついた。
左手の小指にしている、金とプラチナの細い指輪。
向こうの部屋で、チーチーと鳴いているヒトミ。
もらった名刺に目を落とす。


安城 瞳



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8月9日(水)


ひとみ・・・
もういちど、詳しい話を、
聞かなければならないだろう。
しかし、手が震えて、上手くダイヤルがまわせない。
なにが、
なにかが、それを拒絶する。

ひとみを愛する心、
ひとみを必要としている自分。
それが、甲殻虫を飼っている女だとしても。

甲殻虫。
甲殻虫が、したこと。
甲殻虫は、今まで何をしてきただろう。
甲殻虫が、何かに実害を与えただろうか。
I のことにしても、
それは、甲殻虫の悪意に基づくことなのだろうか。
しかし、確かに存在する、甲殻虫への恐怖と不安。

記憶をまさぐる。
気持ちを見つめる。
目をつぶり、
大きく、ゆっくりと呼吸をしながら。



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8月10日(木)


安城さん、再訪。
星占い表と、あめ玉を3つもらう。
また来るそうだ。

K に連絡をいれる。
こまったときに、K だのみ。
具体的に話さなかったとしても、
彼といる空間と時間が、
答えを導き出してくれる。

深夜に近い時間に、やっと来訪。
足は、もうすっかり大丈夫なようだ。
この暑いなか、やはりワインを持ってくる。
スキモノめ。
ビールで軽く乾杯のあと、
さっそく飲み始める。
やはり酔わない。
体質が変わったようだ。
真っ赤な目をしながら、口惜しがる K。
すでにへろへろだ。
ヒトミにちょっかいを出し始める。
しかし、そんな K に捕まるヒトミではない。
するりと脇をすり抜け、K を転倒させる。
転んだまま、天井を仰ぎ、
例の大声で笑う。
ついつられて、しばらくぶりに声を出して笑う。



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8月11日(金)


電話をかけてきたのは、ひとみからだった。
怯えるように震える声で話すひとみ。
感情を殺し、冷たい声で答える。

「少し、距離を置こう。」
・・・月並みな、答えだ。

甲殻虫のことにはふれることなく、
電話をおく。



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8月12日(土)


ひとみのいない生活が始まった。
もう、ひとみのことは、
しばらく考えなくてよいのだ。
考えなくてよいことを、考えるのはやめよう。
考えたくない。
こころを白くするのだ。
考えないのだ。
もっと違うことを考えろ。
距離をおくのだ。
考えるな。
想うな。
・・・

風のない夜更けに、
窓が鳴るのは、なぜだ。



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8月13日(日)


ヒトミの近況を少し。
その後、姿形は変わらないものの、
食欲も旺盛で、順調に成長している。
現在の体長、7.5cm(触覚を含む)、
だいぶ大きくなった。
前回の変体から、今日でちょうど2週間。
以前のペースで行くと、またそろそろ変体が始まる時期だ。

最近の変化といえば、
チーチーとばかり鳴いていたヒトミが、
くぅーくぅー と、ハナを鳴らすように、
甘えた声を出すようになった事か。
ハナもないのに・・・
おもに、遊んでほしいときに使用され、
それは、ほぼ成功を収めている。


やはり夜更けに窓が鳴るのは、
気のせいではないようだ。
カタカタという音に、
カサカサという音が混じる。



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8月14日(月)


夜更けの窓が気になる。
カーテンを開けたまま、
眠らずに、深夜を待つ。

AM1:23 窓が鳴る。
カサカサという音が聞こえる。
窓の外に、何かがいる気配はない。
カタカタという音は続いている。
立ちあがり、窓に近づく。
カタ カタ カタ カタ
カサ カサ カサ カサ
・・・何もいない。
窓に手をかけようとした瞬間に、
ぴたりと音が止む。

ヒトミが不安そうに、
チーと一声だけ鳴いた。



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8月15日(火)


安城さんが、ミッキーのハンドタオルと、
簡単な生命保険のプラン表を持って、やってきた。
言葉少なに、やんわりとした微笑みを残し、
そのまま帰っていった。

プラン表の端に、
安城さんのメールアドレスが、手書きしてあった。
簡単なメールを出す。

安城さんが訊ねて来たときの、
チーチーと鳴き続けるヒトミの声は、
何かを伝えたがっているのだろうか。



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8月16日(水)


変体が始まった。
タンスの上のクッションで、じっと動かないヒトミ。
まだ、シンクロはしてこない。

動けなくなる前に、
忌々しい窓を、パテで固定する。
これで鳴らないはずだ。
対処療法でしかないことはわかっているが、
とりあえず、だ。

安城さんからの返事は、まだこない。



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8月17日(木)


体温、38.2℃、食欲が落ちてきた。
今回は、早目にシンクロが来たようだ。
このだるさも、既に日常となってしまった。
もう、なにが普通のことで、
なにが異常なことなのか、
区別がつかない。

じっと動かないヒトミ。
もし、突然お前がいなくなったとしたら、
どんな日常をすごすことになるのだろう・・・



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8月18日(金)


かーごめ、かごめ
かーごのなーかのとりは、いついつでやる
よあけのばんに、つるとかめがすべった
うしろのしょうめんだあれ?



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8月19日(土)


安城さんから、返事が来た。
おざなりの、営業メール、
期待はずれだ。

体調は、まだ戻らない。
ヒトミも動かない。
今回は、長引くのか・・・



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8月20日(日)


37.2度。
しかし、なぜ、こう眠いのだろうか。
朝から、しっかりと行動出来た時間の合計は、
2時間半ぐらいだろうか。
ベットの上で、重いまぶたの誘惑に負け続ける。

タンスの上のヒトミが、動き始めているような気がする。
確認は、明日だ・・・



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8月21日(月)


まだ重い身体を引きずり、
タンスの上のヒトミを確認する。

真っ黒な光沢を放った長い体毛、
アンバランスなほど大きく見開かれた赤い瞳、
2本の触覚は、黄ばんだ白髪のようだ。

これが、ヒトミ・・・



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8月22日(火)


体調は戻った。
左手の小指には、
真っ黒な光沢を放った長い毛がはえている。
あれがヒトミの新しい姿なのだ。
・・・認めなければならない。

新しい姿のヒトミに、以前のような敏捷さはない。
黄白色の触角をゆるゆると動かしながら、
目標に向かって、ゆっくりと進む。
目を離すととんでもない所にいたりするのは、
どうやら以前のままのようだ。

赤い瞳にまぶたはない。
大きく見開かれたまま、
いったい、なにを見つめるのか。



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8月23日(水)


新しいヒトミは、偏食がきつい。
あんなに好きだった甘いものには、
まったく口をつけない。
好んで食べるのは、なまざかな。
夕食の仕度途中、冷蔵庫から出しておいた鯖を、
いつのまにか、ちゅうちゅうと吸うようにして食べていた。
長い体毛についた、鯖の臭いがきつい・・・

新しいヒトミは、ほとんど鳴かない。
じっとしたままなので、耳を澄ませて近づいてみると、
微かに、ブブブブブ・・・・、ジジジジジ・・・・ という音が聞こえた。
あれが鳴き声なのだろうか。
口から聞こえたようには思えないが・・・



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8月24日(木)


小指の長く黒い毛が、鬱陶しい。
思いきって安全かみそりを使い、そり落とす。
まさかヒトミに影響はあるまい。

そり落とした後の小指には、
斜めに薄い灰色の縞模様が・・・
ヒトミの体毛もそり落としたい衝動に駆られる。
赤い瞳に見つめられ、断念する。

1時間もすると、うっすらと毛が生え始め、
半日ですっかり元に戻ってしまった。
どうやら、慣れるしかないようだ。



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8月25日(金)


ひとみからTEL。
なにも喋らずに、受話器を置く・・・



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8月26日(土)


ひとみからTEL。
泣いている・・・
なにも喋らずに、受話器を置く・・・



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8月27日(日)


ヒトミと風呂にはいる。
いつもの調子で湯船に入れ、頭を洗い始める。
ふと気になり、泡だらけの頭のまま、
片目を開けて、湯船を覗きこむ。

ヒトミが、湯船の底に沈んでいる。
湯の中でも見開かれている、大きく真っ赤な二つの瞳。
海藻のようにゆらゆらと蠢く、ながく黒い体毛。
時折小さな泡を出しながら、こちらを見上げている。
助けを待っているのだろうか・・・

その姿のあまりのおぞましさに、身体が硬直する。
軽いパニックに陥り、逃げるように浴室を出て、
自室へと向かう。
部屋に入り、後ろ手にドアを閉める。
・・・ベッドの上には、
浴室に置き去りにしたはずのヒトミが、
ぐっしょりと濡れたまま、
うらめしそうに、
こちらを見ていた。

たすけてくれ。



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8月28日(月)


どうしよう。
やってしまった・・・



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8月29日(火)


足元には、
血まみれになったヒトミが転がっている。

昨夜遅く、
つまらない事からパニックに陥り、
ヒトミを、
思いきり、
壁に、
投げつけた。

鳴き声もなく、床に転がるヒトミ。
その小さな身体の下から、
ゆっくりと広がる、真赤な血液。
・・・動かない。
我にかえり、呆然と立ちすくむ。

まぶたのない真赤な瞳は、
見開かれたままだ。
・・・。
こちらを見ているように思えるのは、
気のせいなのだ。

そして、今日。
ヒトミの身体から、腐臭が。



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8月30日(水)


今日は、生ゴミの日。
腐臭を放つヒトミの死体を、
スーパーのビニール袋に入れ、
固く縛る。
ごみの集積場は、すぐそこだ。

さようなら、ヒトミ。



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8月31日(木)


左手の小指にはえている、
ヒトミの想い出を、
かみそりで、そり落とす。
何度も、何度も、
繰り返し、繰り返し、
ていねいに、ていねいに・・・

しばらくすると、
まるで、名残を惜しむかのように、
また、艶やかな毛が・・・

やりなおしだ。

4回目の剃毛で、手が滑り、
深い傷をつくってしまう。
流れ出る赤い血液。
ぼんやりと眺める。



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