ヒトミの飼育日記  2000年9月
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9月1日(金)


ヒトミのいない生活が始まった。
もう、ヒトミのことは、
しばらく考えなくてよいのだ。
考えなくてよいことを、考えるのはやめよう。
考えたくない。
こころを白くするのだ。
考えないのだ。
もっと違うことを考えろ。
死んでしまったのだ。
考えるな。
想うな。
・・・



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9月2日(土)


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9月3日(日)


窓を開け、風を通す。
外はまだ暑いが、
青空は高く、風は秋の香りがする。

涼やかな気持ちのまま、
・・・なにもしない。
ベッドに腰掛け、
目を瞑り、
うつむく。
時が、過ぎてゆく。



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9月4日(月)


・・・
カタカタと、
引出しの中で音がする。
カタカタ、カタカタカタ、
また、何かが起こるというのか。
おねがいだ。
もう、そっとしておいてくれ。



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9月5日(火)


カタカタ、カタカタカタ、
引出しが鳴る。

カタカタ、カタカタカタ、
ゆっくりと、近づく。

カタ、カタカタ、
引出しを開ける。

小箱。
鳴っている。
引出しから、取り出す。
開ける。

I の家から持ち出した卵の化石が、
割れている。

そこには、
2cmの、
ヒトミが・・・

3色の体毛、2本触覚の姿だ。

耳を澄ます。
かすかに、
本当に、微かな声で、
でも確かに、
チーチーと鳴いている。



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9月6日(水)


ちいさなヒトミ。
2cmでは、この散らかった部屋の、
何処にいるのかわからない。
あの声では、返事をしても聞こえないだろう。
しかも、相変わらず、妙なところに現れる。
トイレの排水タンクの上にいたときは、
さすがに不意を付かれて、
不本意ながら、
わっ と、声をあげてしまった。
踏まないようにだけは、気を付けよう。



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9月7日(木)


H が実家に戻っているそうだ。
明日、会いに行こう。



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9月8日(金)


H 。
あれほど会いたがっていた。
しかしこれは、もはや H ではない。

始終、ニコニコと続く笑顔。
生徒会で活躍していた面影は、
だらしなく語尾が延びるその口調からは、
感じることは出来ない・・・

南米に赴任していたのだそうだ。
何かを飼っていた記憶はあるらしいのだが、
詳しいことを聞くと、会話が要領を得なくなる。
とぼけているようには思えない。
部分的な記憶喪失なのだろうか。
それ以上のことを聞くことは、
諦めた方がいいようだ。
左手の小指に変化はない。

H のお母さんから聞いたところによると、
赴任先で、ある日を境に、
人が変わったようになってしまったのだそうだ。。
それまでは、将来を期待される人材であったらしい。
母の贔屓目ではなく、高校時代の彼のことを考えれば、
本当にそうだったのだろう。
期待が大きかった分、その後の会社での風当たりも強く、
なかば強制的に、希望退職のような形をとらされたのだそうだ。

帰りがけの玄関先で、
ばったりと、安城さんに会う。
軽く会釈をしてわかれる。



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9月9日(土)


K から連絡。
ひとみのことで話したいことがあるそうだ。
K にも、ひとみにも、
1ヶ月以上連絡をとっていない。
K はめずらしく、重い声で、
明日の来訪を告げた。

この1ヶ月の出来事を、
彼に、どう説明しよう・・・


9月というのに、この熱帯夜。
2cmのヒトミは、皿にはった水の中で、
水浴びを楽しんでいる。



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9月10日(日)


ひとみが眠り続けているそうだ。
もう、2週間も。
車で30分ほどの総合病院に入院中で、
一通りの検査を終え、結局は原因不明、
いわゆる、植物人間のような状態らしい。
あす、見舞いに行くことにする。

今日は、ひとみの話しに終始し、
ヒトミのことにはふれず終い。
2cmのヒトミも、どこに隠れてしまったのか、
K の前に姿を見せなかった。

厳しい残暑のせいか、緊張のせいか、
滝のように汗をかく K。
カバンから取り出した、
ミッキーマウスのハンディタオルが、
話しの緊張感にそぐわず、
苦笑いを誘う。



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9月11日(月)


白い布団の中で、
微かな寝息をたてながら、
静かな表情で、眠り続けるひとみ。
右手に刺さる点滴だけが、痛々しい。

植物人間というのではなく、
本当に、眠り続けているだけなのだそうだ。
脳波も、完全に睡眠時のそれらしい。
原因は不明。
夜、普通に就寝し、
そのまま、目覚めなくなってしまった。
いつもと違っていたのは、
部屋のガラスが1枚だけ、割れていたこと・・・

何をするでもなく、
1時間ほどひとみのそばに座り、
穏やかな寝顔をながめ続ける。
3月に再会してから、
ひとみに、何をして、
何をしてあげなかっただろう。

K に声をかけられ、
椅子から立ち上がり、
病室を後にする。
ドアを閉めかけたが、
振りかえり、もう1度ひとみのそばへ。
きゃしゃな手を握る・・・

左手の小指の甲殻は、
消滅していた。



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9月12日(火)


ヒトミ。
2cmであるということ以外、
まったく以前と変わりないおまえ。
甘い物が好きなところも、
水に浮く姿も、
ちょこちょこと動きまわるすばやさも、
2本の触覚の動きも、
深く深く蒼い瞳も・・・

おまえはヒトミなのだね。

・・・恨んでいないのかい。



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9月13日(水)


PM 6:50
突然の嘔吐、
トイレにかけこむ。
夕食前だったため、吐くものが何もなく、
胃液を吐く。
胃液を吐ききっても、嘔吐が止まらず、
涙を流しながら、便器を抱え、
胃を痙攣させる。

右腰と、左手の小指が、
痺れるように痛い。



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9月14日(木)


定期的に訪れる嘔吐、
2時間半に1回。
それは徐々に激しくなっている。
午後10時には、嘔吐が止まらず、
便器を抱えたまま、20分。
最後には、胃壁が破れたのか、
胆汁に血が混じる。

排水タンクの上の2cmのヒトミが、
見下ろしている。
あざ笑っているように思えるのは、
被害妄想というものだろう。

腰の痺れが、
はっきりとした痛みに変わってきた。
左手の小指は、
痺れたまま動かない。



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9月15日(金)


絶え間ない嘔吐と、
腰の激痛。

他には何もない。

ひとみ、ヒトミ、ひとみ、ヒトミ・・・



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9月16日(土)


深夜、
トイレに行くことも出来ず、
ベッドの上で、腰の激痛と嘔吐に、
のたうちまくる。
すでに、自分が何を吐いているのかもわからず、
吐瀉物に塗れていく。

AM 4:46、
体内で、今までと違うゴツゴツという音。
腰の痛みが移動する感覚。
一瞬、嘔吐感が止まり、
大きく深呼吸をする。
次の瞬間に訪れたのは、
全ての内臓を吐き出さんばかりの嘔吐。
深い部分から、大量の血膿と共に、
4cmほどの塊を吐き出す。

そのまま、気を失った。



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9月17日(日)


吐瀉物と血膿に塗れ、
もう使えない布団の上に、
転がっているのは、
灰色と茶色の縞模様の石・・・



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9月18日(月)


布団を捨てに行く。

雨上がりの草の匂い。
まぶしい夕陽。
高い空。
秋風。
季節はずれの、
ツクツクボウシ。


・・・何も考えられない苦痛の中で、
ひとみの名前を呼んだ。

明日、もう1度会いに行こう。



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9月19日(火)


静かに眠るひとみ。
その病状に変わりはない。
栄養の補給が点滴だけのせいか、
少し頬のあたりが痩せたような気がする。

そういえば、ディズニーランドに行く約束をしていたっけ。
一緒に住もうという提案には、
同意をしたような、しないような・・・

ひどい男だ。
でも、愛しているんだ。
高校で、初めておまえを見たときから。
あのレストランで別れを告げられた後も。
再び出会ってからも。
なにも話してくれないおまえと、気まずくなっていた間も。
左手の小指が、甲殻に覆われていた時でさえ・・・

たのむ、
目を覚ましてくれ。

おとぎばなしを思いだし、
そっと、くちづけをする。
ムダなこととは、わかっていながら・・・



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9月20日(水)


ひとみのために出来ること・・・

甲殻虫を探そう。
甲殻虫がひとみの元に戻れば、
目が覚めるかもしれない。

手掛かりは…
まず、I だ。



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9月21日(木)


I を訊ねる。
相変わらずのニコニコ顔、
ゆるい口調で、質問に答える。

「その後甲殻虫は、現れるか。」 「ぜんぜん。」

「甲殻虫のことで、何か思い出したことはないか。」 「ぜんぜん。」

「ひとみが甲殻虫とシンクロしていた様だ。」 「ふ〜ん、そうなの。」

「いまシンクロがとけ、昏睡状態だ。」 「へぇ〜。」

埒があかない。
質問を続けるうち、だんだんと腹がたち、
こぶしを固く握り締めるが、
殴る価値もないことに気付き、
こぶしを開く。



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9月22日(金)


甲殻虫に関する手掛かり…
気ばかりがあせるだけで、なにも思い出せない。

2.5cmのヒトミ(少し大きくなった)は、
相変わらず、部屋の中をちょこちょこと歩き回っている。
「おまえは何か知らないのか。」
訊ねた声に立ち止まり、
2本の触角を動かしながら、
いままでになく大きな声で、
チー と返事をした。



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9月23日(土)


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9月24日(日)


ここはどこだ。
ヒトミの触覚に導かれるまま進み、
気が付けば、この部屋にいる。

部屋の中にはパソコンと食料。
すでに、ドアは開かない。



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9月25日(月)


一昨日、
左の手のひらにヒトミを乗せ、
その触覚に導かれるまま、
甲殻虫を探しに出た。

すれ違う人々が振り返るのも気にせず、
ひたすら歩き続ける。
電車に乗り、
バスに乗り、
また、歩く・・・

AM 9:00過ぎに家を出て、
昼過ぎの時点までの記憶はしっかりとしているのだが、
それ以降の記憶がはっきりしない。
どこをどう歩き、何に乗り、どこについたのか。
思考が止まり、無機的に行動していたのだろうか。

深夜、この部屋に入り、
ドアを閉めたおとで、我に返った。
振り返り、ノブを回すが、
ドアは開かない。
ここがヒトミの目的地なのだろうか。



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9月26日(火)


1DK。
フローリング。
8畳ぐらいだろうか。
窓は雨戸がしまったまま、開かない。
耳を澄ますが、外の音も聞こえないようだ。
キッチンには、レンジや、冷蔵庫を含め、
一通りの炊事道具はそろっている。

部屋の中にあるもの、
ベッド、机、パソコン。
机の引出しには、
一通りの筆記用具と、
白紙の大学ノーとが3冊。
テレビ、ラジオの類はない。
パソコンが有れば、不自由はしないが。

生鮮、冷凍、乾物等、食料品もそろっている。
1週間ぐらいは、まったく問題ない量だ。

ヒトミは、新しい空間がめずらしく、
ご機嫌で跳ねまわっている。
いい気なものだ。
おまえはここで、何をしろと言うのか。



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9月27日(水)


4日目。
時間だけが過ぎていく。
叫んでも、暴れても、何も起こらない。

この部屋が、甲殻虫とどういう関係があると言うのか。
わからない、わからない、わからない・・・
雑誌の付録に付いてきた小冊子の、
推理クイズをやらされているような気分だ。

ひとみにあいたい。



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9月28日(木)


5日目。
なぜ今まで気付かなかったのだろう。
外界と唯一つながっているもの、
このパソコンからわかる事は多い。

ネットには、大手プロバイダーを通じてつながっている。
アクセスポイントを見る限り、
そう遠くに来てしまっているわけではないようだ。
以前使用されていた形跡は、まったく残っていない。
しかしOutlook には、しっかりとメールアドレスが登録されていた。


hitomi2cm@・・・・


やはり、誰がこのパソコンを使用するのか、
わかっていたのだ。

初めての、メールチェック。

一通の受信。

・・・ひとみからだ。



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9月29日(金)


あの部屋にいるのですね。
そこは6月に、私が甲殻虫とすごした部屋です。
わたしにも、そこがどこで、
誰が何の目的でつくった部屋なのかは、
わかりません。
誰かが見つけて処分していなければ、
台所の換気扇のフィルターを外した内側に、
わたし以前にこの部屋を使用していた方の、
日記があるはずです。


受信日時 9月26日 15:46
アドレスは、確かに彼女のものだ。



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9月30日(土)


日記。
あった。
ページをめくる。
日記を書いていたのは、
行方不明の、あの生物講師だ。

ヒトミは、キャベツの芯を、
文句も言わず、美味しそうに食べている。
食べ物が残り少なくなってきた。



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