ヒトミの飼育日記  2000年12月
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12月1日(金)


眠れない。
不安に押しつぶされそうだ。
ゆっくりと、眠りたい・・・

あす、あの生物講師の部屋に、
もういちど、行ってみよう。



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12月2日(土)


生物講師の部屋。
さすがに引き払われている。
しかしまだ、次の借主は決まっていないようだ。
玄関に、簡単なメモが貼ってある。


○○にご用件のある方は、
下記電話番号までご連絡ください。
○○-○○○○-○○○○
代理人 安城 瞳



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12月3日(日)


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12月4日(月)


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12月5日(火)


3日、日曜日、夕食後。
満腹になって、うたた寝をしている、
ヒトミの背中を撫でていると、
突然、なんの前触れもなく、
ふってわいたような、強烈な睡魔に襲われる。
抗う事は出来ない。
ベッドへもたどり着けないような、
ヘドロのような睡魔。
いまにも閉じそうなまぶたと、必死で戦いながら、
幸せそうにうたた寝をしているヒトミを、確認する。
変わったところはない。
明日は、月曜日だ。
この睡魔に支配されたまま、
もう二度と目覚める事がないことを、覚悟する。

消え入りそうな声で、
ヒトミにさよならを言い、
その不可思議な睡魔に、
身を委ねる。

落ちてゆく感覚。
ゆっくりと。
粘度のある空気の中を、
沈み込んでいくように。

どこまでも、どこまでも、落ちてゆきながら、
もやのかかったような頭の中で、
いろいろなことを考えたような気がするが、
よく覚えていない。

目覚めると、
5日、火曜日、午後 2:37。
ヒトミは、
3日と同じ場所で、
同じように、うたた寝をしていた。

助かったのか、
それとも、順番が回ってきたのではなかったのか。

Y くんに電話をする。
健在だ。
今週は、ノートに記載されている、知らない二人のうちの、
どちらかの番だったのか。
だとすると、先週分と、今週分で、
もう、あとはない。
来週は、
来週こそは、
Y くんか、
それとも・・・



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12月6日(水)


残された時間は少ない。
やれる事はやろう。

K に電話。
いきなり切られそうになる。
K らしくない行動。
安城さんが生物講師の代理人になっていたことを、
大きな声で告げ、なんとか切られずにすむ。
K の部屋で話しをすることを、
承諾してもらう。
気が進まないようではあったが。

おもに安城さんに関する情報交換。
K に、安城さんが倒れた29日の様子を詳しく説明する。
この部屋に運び込まれたあと、すぐに気がついて、
なにごともなく帰って行ったらしい。
そして、生物講師の代理人のメモの話。
K からは、安城さんとの馴れ初め。
ぼそぼそと喋る K。
やなり、らしくない。
保険外交員として訪れた安城さんに、
一目惚れしたという、ありきたりな話し。
安城さんの私生活に関しては、
K もまったく情報を持っていない。
しかし、付き合っているという認識は、かわしているらしい。
もちろん、からだの関係も。
連絡は、おもにメール。
いつも、K の部屋でおち会い、
日によっては、そこから外へのデート。
そのまま部屋で過ごすことも、少なくなかったらしい。
最近は、3日に1度ほどのペースで、逢っていたようだ。

それにしても、K は、
安城さんのことを何も知らない。
住所、経歴、家族、何一つ・・・
そんなことはない と、Kが話してくれた、
安城さんの好きなもの、嫌いなもの。

好きなもの。

ジャガイモ、柑橘系以外の果物、うどん、はんぺん、パセリ、ワイン、ポッキー、牛乳。

嫌いなもの。

御新香、炭酸飲料、牛肉、柑橘類(匂いもダメらしい)、パスタ。

日向ぼっこが好きで、
日当たりのいい公園のベンチで、
のんびり話をすることも、多かったらしい。

部屋に戻り、
ヒトミと戯れる。
今は、こうしている時間が、
唯一のやすらぎだ。
ヒトミ、
愛しているよ。



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12月7日(木)


安城さんに電話。
通じない。
呼出音だけが、果てしなく繰り返される。

K に電話。
安城さんの、所在を尋ねる。
知らない。
K も連絡がつかず、焦っているようだ。

何もわからないからといって、
じっとしていても、しょうがない。
生物講師の大学研究室を訪ねる。

ノック。
開かれる研究室のドア。
以前対応をしてくれた女性が、立っている。


「すいません、安城 瞳さんは、いらっしゃいますか。」


あてずっぽうだ。


「はい、今呼んで来ますから、少々おまちください。
お名前をいただけますか。」


!!
少し迷ったが、正直に名乗る。
ずいぶんと長い時間、扉の前で待たされたような気もするが、
実際には、5分もたっていなかったのかもしれない。


「すいません、
彼女、今どうしても手が放せない実験中のようです。
メモを言付かって来ました。」


ノートの端を破ったような紙に、
見たことのある文字。


今日は、お会いできません。
必ずメールをいたします。


次の言葉を発する前に、
ドアは冷たく閉じられ、
そして、キーをロックする音。



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12月8日(金)


安城さんの、メールはこない。

昨日のことを話に、K の家へ行くことにする。
連絡を入れると、めずらしく、車で迎えに来ると言う。
ひさしぶりにのる、K のポンコツ車の助手席。
シートの座りごこちは、相変わらず最悪だ。
ギアの調子が悪いらしく、
ガチャガチャとシフトをチェンジする K の左手。

おまえ、その小指、
どうしたんだ。



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12月9日(土)


K の手。
男らしい、大きく、ごつく、毛深い手。
その左手の、
小指だけが、
透き通るように、
白く、細い。
まるで、
女の、
指、
だ・・・



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12月10日(日)


明日、
消えてしまうこの身だとしても、
少しでも、前に進もう。

K の話、
安城さんは、身体が弱いらしく、
たびたび寝こんでいた。
安城さんが寝こんだ後には、
必ずと言っていいほど、
K も風邪をうつされていた。

推論、
安城 瞳は、一連の謎の生物と同種であり、
K とシンクロしている。
そんなバカな。
しかし・・・

Y くんに連絡。
別に何を伝えるわけでもない。
ただ、明日は、
どちらかが、消え去るのだ。
ただの雑談をしている途中で、
涙をこらえきれず、声を詰まらせてしまう。
何も知らない彼は、
本当に心配そうに、声をかけてくれる。
いいこだ。
こんな彼が・・・

ヒトミ、
今日もかわったところは、
何もない。
チーチーと、テニスボールに戯れている。
ふと、
ヒトミを殺してしまったら、
正体不明の失踪から、
逃れられるかもしれないと、考える。
よみがえる、あの日の感覚。
ヒトミを叩きつけ、殺したあの日。
黒い毛に覆われたヒトミを、
握った時の、手の感触。

気分が悪くなり、
トイレに行って、もどす。
ぐったりと身体が重い。
もう、寝てしまおう。
疲れてしまった。



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12月11日(月)


ルルルルル・・・
ルルルルル・・・
鳴り続く、鳴り続ける、呼出音。

さようなら、Y くん。

神に、
慈悲の心は、ない。



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12月12日(火)


すこしだけ、
悲しむ時間を、
ください。
明日からは、また、
前へ、進みます。



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12月13日(水)


頭が割れるように痛い。
腰に鉛が貼り付いているかのように、重い身体。
立って歩くのがやっとだ。
しなければならない事は、いくらでもあるのに。
何よりも、残された時間のことを考えると、
気ばかりが、焦る。

ヒトミも、ぐったりと、
お気に入りのクッションの上で、うずくまっている。
こんな時期に、変体が始まってしまったのだろうか。
それとも、月曜日に向かっての、
前触れなのだろうか・・・



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12月14日(木)


重度の倦怠感は、今日も続いている。
泥のような身体に鞭うち、
ようやく、電話をかける。

安城さん、通じない。
生物講師の研究室、通じない。
K 、通じない。
Y くんの家、通じない。
H、I 、カメラ屋、そして、ひとみ、
通じない、通じない、通じない、・・・通じない。

沈黙を続ける受話器に耐えきれず、
117 にダイヤルをする。
目を瞑り、延々と続く時報を聞く。

ヒトミの苦しそうな鳴き声が聞こえるが、
身体を起こす事は、できない・・・



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12月15日(金)


ヒトミ、
苦しそうに、ジ、ジジ・・・と鳴きながら、
時折、ヒクヒクと身体を動かす。
ゲ、ゲッッという声は、何かを吐いているのだろうか。

うすぼんやりとしたまどろみ。
ベッドの横に立つひとみが、
こちらを見下ろしている。
やさしい慈愛に満ちた微笑み。
シンプルな白のワンピース。
背中から、純白の大きな羽根がはえている。
・・・美しい。
しばらくすると、
何もいわず、ゆっくりと消えていく。
差し出された両腕、
呼んでいるのか、
どこへ・・・



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12月16日(土)


あと二日・・・

ちくしょう、
この身体、動け。



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12月17日(日)


ようやく少しは動けるようになった身体。
しかし、身体を起こすと、
ゆっくりと世界が回っているような感覚に襲われ、
立っていられない。
外出は無理だ。
しかたなく、一日中電話をかける。
やはり、どこも通じない。
進展は、まったくないということだ。

ヒトミは、
痙攣や、嘔吐はしていないものの、
まだ、お気に入りのクッションの上で、
じっと、うずくまったままだ。

まだ、信じられない。
実感が、なさ過ぎる。
明日、
どこにいくのか、
それとも、霧のように消えてなくなってしまうのか・・・

少なくとも、今日、
特別なことは、何もなかった。



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12月18日(月)


イキテイル。
ココニイル。

イナクナッタノハ、ダレダ?



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12月19日(火)


ようやく動けるようになった身体を、引きずりながら、
K の家へ向かう。
案の定、ノックをしても反応がない。
ドアノブを回す。
カチリという音と共に、開かれるドア。
鍵は掛かっていないようだ。

相変わらず、散らかった部屋の真ん中に、
家具調コタツが1台。
その上には、食べかけの、パスタ。
K の好きな、ペペロンチーノだ。
床に落ちているフォーク。
キッチンには、パスタを茹でたなべ、
包丁、まな板、フライパン、
すべて、使ったままの汚れた状態で、放置してある。
部屋は散らかったままでも、
調理道具だけは、しっかりと手入れをし、
整理しておく・・・
K の習慣のはずだ。

消えたのは、
K だ。
やはり、
安城 瞳は、
ヒトミの仲間だったのか。



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12月20日(水)


ヒトミの体調は戻らない。
もう1週間、
ほとんど餌を口にしていないことになる。
ヒトミサイズの生き物が、
1週間の断食に、耐えられるものなのだろうか。

小さな小皿に、
蜂蜜を牛乳でといたものを入れて、
ヒトミの側に置いてみる。
ゆるりと近づき、音を立ててすすっている。
少し安心した。



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12月21日(木)


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12月22日(金)


再び襲って来た、重度の倦怠感。
いや、それは、倦怠感などと言うものではなく、
身体自体の機能が、停止してしまったかのような、
なにか、だ。

ベッドに横たわったまま、指先も動かせない。
そして、この身体を気遣ってくれる、K も、ひとみも、もういないのだ。
ながれる涙。
しかし、それを拭うこともできない。

タンスの上のクッションで、
ヒトミは、どうしているのか。
それだけが、気がかりだ。



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12月23日(土)


一進一退。
今日は、少し身体が動く。
食欲はないが、食べておかなければ。
買い物には行けないが、
パスタぐらいはなんとかなる。

動かないヒトミにも、
以前と同じ、蜂蜜ミルクを。
食べてくれない。
抱き上げて、耳をあてる。
小さな鼓動音、
生きている。

生きていてくれ。
おまえがいなくなると、
本当に、
独りぼっちになってしまう。



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12月24日(日)


生きていたいという、気持ち。
生きていたいという、あがき。

キリストが生まれた夜、
何が起こるのか。
サンタクロースのプレゼントは、
永遠の沈黙、か。



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12月25日(月)


目が覚めた。
どうやら、まだここで、
生きていてもいいらしい。

ベッドから身体を起こし、
ふと床を見ると、
裸のまま、
身体を丸めて、
横たわっている、
ひとみ。

これは、クリスマスプレゼントですか。

メリークリスマス。



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12月26日(火)


ヒトミがいない。
昨日、ひとみを発見して、
あれこれとしていたせいで、
気が付くのが遅くなってしまった。
しかし、いなくなるのは、よくあることだ。
そのうちまた、ひょっこりと出現するだろう。

昨日現れたひとみは、
何らかのショックのせいか、
精神が、ほとんど幼児化してしまっている。
いや、乳児化というべきかもしれない。
それほどに何もできないのだ。

久しぶりの外出。
薬局に行き、大人用のオムツを購入。



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12月27日(水)


一応歯は、はえそろってはいるのだが、
上手に咀嚼が出来ないひとみ。
口元からぼろぼろと食べ物がこぼれる。
流動食とまでは行かないものの、
やわらかなものから、食べる練習をしないといけないようだ。

味噌汁の豆腐を食べさせてやりながら、
ふと考える。
ひとみの記憶は、どうなっているのか。
本当に、子供にもどってしまっているのなら、
あの、愛したひとみは、もういないのか。
それとも、この状態は一時的なもので、
そのうちに記憶を取り戻してくれるものなのか。

今のひとみの世話をすることは、
まったく苦痛ではない。
逆に、嬉しいくらいだ。
しかし、なにかが違うような違和感が、
胸の片隅から、
拭い去れない。



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12月28日(木)


オムツをお取り替えている時に気が付いた。
以前あった、右内腿のほくろが、
ない。



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12月29日(金)


まだ赤ん坊のようなひとみを、
抱く。

滑らかな肌。
やわらかな胸。
細くあえぐ声、感じているのか。



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12月30日(土)


育つひとみ。
つかまり立ちが、出来るようになった。

月曜日、
もしことがおこって、一人で残されるようなことになったなら、
このこはどうなってしまうのだろう。



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12月31日(日)


1年が終わる。
ヒトミと過ごした1年。
ひとみと再会した1年。
喜び、不安、葛藤 ・・・
全てがそこにあった。



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