The Japanes Army Type 1 Fighter Hayabusa (Ki-43 Oscar) Research Laboratory.
一式戦闘機 「隼」 研究所
手持ち資料(オリジナル版)東宝映画「加藤隼戦闘隊」オリジナルスナップ写真集より。オリジナルスナップ写真集は東宝からこの映画に協力をした陸軍関係者に配布されたもの。1944年3月
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一式戦闘機取扱参考に記載されている五つの要則は、昭和十六年十二月陸軍航空總監部「空中勤務者の嗜(たしなみ)み」から引用されています。該当箇所を原文ママに旧カナ使いを現代カナに変更して記述します。
一、剛膽にして彗敏(ごうたんにしてけいびん)」
一、周到にして沈着
一、機に臨み果敢断行
一、特技に精熟兵器尊重
一、飛行機事故の絶無
■特性涵養
空中勤務者は烈々たる攻撃精神充溢し、事を図るや綿密周到、任に当たるや果敢断行、機に望み変に応じては冷静しかも彗敏(けいびん)よく機局を明察し、常に主動に立ちてこれに処すること肝要なり。
■兵器尊重
飛行機は空中勤務者の唯一絶対の兵器なり。さればこれを常に尊重愛護することはもちろん、深くその性能に通暁(つうぎょう)し、もってこれが活用に遺憾なきを要す。不注意のため飛行機を破損することなかれ。就中(なかんずく)地上事故は恥辱の甚だしきものと心得るべし。
空中勤務者たるもの豈(あに)磨かざるべけんや豈(あに)努めざるべけんや
■一式戦闘機「隼」について
隼戦闘機の制式な名前は「陸軍一式戦闘機」つまり陸軍のみで使用された戦闘機で第二次世界大戦中、陸軍の主力戦闘でした。当時の陸軍部隊での呼称は単に「一戦」と呼ばれていました。
もちろん、海軍の主力戦闘機であった零戦、つまり零式艦上戦闘機とは構造も部品の規格も機体特性も全く相違します。
下図はもっとも一式戦らしいといわれるニ型と同じく、零戦の最終形と言われる五二型(A6M5)との寸法比較図を作ってみました。寸法は殆ど変わらないのですが、翼形や胴体の狭梁さが良く判ると思います(寸法単位はm)。
■はじめに・・・
旧陸軍の戦闘機でもっとも優秀な機体は何か、と空中勤務者の操縦士(陸軍でのパイロットの呼称)や地上勤務者(整備員)に尋ねると以外にも一式戦(三型)と答える人が多かったといいます。それは信頼性・運動性能の高さからくるもので実際、ベテランパイロットほど評価は高かったと言います。
特に、一式戦闘機「隼」の最終的な性能は、というと1,153機製作された三型より、推進排気管(単排気管)、水メタノール噴射の採用、気化器空気吸気管の効率向上により、最高速度は576kmとなり、大島設計主務をして、「速度は零戦の各型より優速となり、上昇力、航続距離、操縦性何れも上回り、劣っているのは武装のみという生まれ変わりようであった」、操縦士から「私が今健在で居られるのは、一式戦三型に乗っていたからで、他の機種であったら、おそらく命が無かった」、また、「低空ではグラマンF6Fより優速であった※」ほどで、米軍からも防弾装備での打たれ強さも相俟って終戦まで、Oscar(隼)は油断のならない機体と評価されています。
※飛行第20戦隊の1編隊が低空で飛行中、グラマンF6Fに後方から襲われた際に全速力で逃げたが次第にグラマンを引き離し遂に振り切ったという。
陸軍のエースパイロットで戦後ジェットパイロットの職人と言われた黒江康彦は「軍用機とはいくら数値上の性能が良くてもダメ、実戦において絶対的な要件となるのは信頼性である。一式戦が旧式呼ばわりされながらも最後まで使われたのは信頼性があったからだ。それが軍用機である」と言っています。
実際、一式戦闘機「隼」の戦いは南方の高温多湿のニューギニア・ブーツ基地から雪深い千島列島の幌筵島・北ノ台飛行場まで幅広いものがあり、とくに雪の中での運用が可能であったのは一式戦・ニ型以降のハ115(海軍では栄、21)のエンジンと構造のシンプルな補器・電装類でした。
もっとも、シンプルといっても当時の青図でみると電気系統図、電気系統配線図は恐ろしく複雑ですが・・・。
昭和19年3月13日発行 讀賣写真ニュース焼付版。当時発行のオリジナルプリントより。キャンプションには「雪の滑走路に愛機を運ぶ北方基地の陸軍戦闘隊。内地では櫻も綻びようというのに、昨日も今日もこの通り吹雪が荒れている」とあります。
この時期、雪が吹雪く外地としては、北海道や中国も考えられるのですが、北海道ではまだ襲撃はありませんでしたし、中国、例えば山西省太原飛行場ではありません。中国の内陸部は冬はシベリヤ寒気団により恐ろしく寒いのですが、雪がとても少ないからです。したがって、写真の場所は幌筵島(ぱらむしるとう、ほろむしろとう)の北ノ台飛行場で54戦隊の一式戦闘機「隼」でしょう。もちろん、占守島(しゅむしゅ)にも飛行場はあり、隼の残骸回収で有名なのですが、占守島片岡飛行場は小さく守備兵も少なかったため、この頃の日本軍の最北端の航空基地は北ノ台飛行場であったのです。
アッツ島の玉砕(昭和18年5月12日)、キスカ奇跡の撤退(昭和18年7月29日)の後の事であり、両島から米軍の襲撃が終戦まで続きます。写真は襲撃に備え吹雪の中、滑走路に駐機させる所ですが、吹雪の中の出撃は信頼性の高かった隼だから可能であった事でしょう。
ちなみにこの一式戦闘機「隼」はカウル前面5重の環状オイルクーラー、小型の補助冷却口から前期型の二型であることが判ります。
また、信頼性が高くても戦闘能力が高くなくては長きに渡って運用されることはありません。戦闘機の目的は制空です。制空とは味方が攻撃されないように“敵を牽制し落とすこと”、“敵に落とされないこと”が重要でした。落とすことについては一式戦は弱武装でしたがホ103機関砲の装備とともに一式曳光徹甲弾(防弾鋼板を貫通)・マ102弾(特種焼夷弾−燃料タンクを燃焼)・マ103弾(炸裂弾−遅延信管を持ち機内に進入後、遅延爆発して乗員や装置類を破壊)が1:1:1で使えるようになり、「空の狙撃兵」と呼ばれる射撃安定性と相俟って攻撃力も侮れない程向上しました。
特に「落とされないこと」は重要で落とされないためには翼は薄く、軽戦闘機である一式戦闘機「隼」の翼は敵機から見ると線のように薄く、機体は狭梁で小さな点のようでした。つまり、“線(翼)”と“点(機体)”にしか見えないわけですから、弾を当て難たかったようです。
また、落とされ難かったことについては運動性能、つまり空戦性能が高くある必要がありました。ユーチューブにモノクロームの画像の中で軽々と銀色に光る機体を駆って鮮やかに飛翔する一式戦の姿が多くアップされているので、飛行機好きなら一度は見たことがあると思います。これは第二次大戦中に日本で作成された国策映画「翼の凱歌」や「加藤隼戦闘隊」等からの映像を加工したものなのですが、まるでエアレーサーのようで当時の日本の航空機の性能を知る上で貴重な資料となっています。
ところで、あの映像での一式戦闘機「隼」は小さい上に陽光に銀色に光っているためオモチャのように見えたと思います。映画ではあの円谷英二が特撮に参加していますが、この飛翔映像はもちろん本物です。あのように強く光る理由は構造材としてアルクラッド24ST(アルミ合金材の周りに耐食性に優れた純アルミを貼り付け、熱間圧延したもの)を使用しているためで無塗装だと、とても強く光るのです。これも米戦闘機にも広く一般的に使用されており、その強い輝きは以外な共通点といえるかも知れません。
昭和19年7月14日発行 讀賣写真ニュース焼付版。当時発行のオリジナルプリントより。キャンプションには「南雲最高司令官指揮官以下全員戦死の悲痛なる発表に此れを決して起こった中島飛行機工場 いまこそ全国の生産陣に玉砕突撃の歓声は轟く」となっています。昭和19年 7月6日中部太平洋方面艦隊司令長官南雲忠一海軍中将はサイパン島にて自決。戦死公報の日付は昭和19年7月8日、同日付で海軍大将。当時の中島飛行機での黙祷の様子。一式戦闘機が置かれており、一式戦闘機のアルクラッド地金(純アルミ層)が工員によって磨かれ、陽光に輝いています。
また、「隼」は翼端失速をなくすため主翼取付角度2°に対して翼端で2°捩り下げしている、つまり叩いて伸ばして曲げてといった微妙なラインを持っており、プラモデルでも再現できない職人によるハンドメイドな製品であったりします。
こんなふうに当“一式戦闘機「隼」研究所”では、あまり人気がない日本陸軍の戦闘機、一式戦闘機「隼」にスポットを当て、当時のオリジナル資料を中心に、Deepな情報からどうでも良いハナシまで深く掘り下げて行きますのでよろしくお願いいたします。
平成22年12月19日国立科学博物館特別展「空と宇宙展−飛べ!100年の夢」より。
■一式戦闘機「隼」とハヤブサ
一式戦闘機「隼」の空力部分については糸川英夫技師が設計を行いましたが、糸川技師は戦後、AVSA班(Avionics and Supersonic Aerodynamics:航空及び超音速空気力学)を立ち上げ、日本のロケット開発の先駆者となりました。
小惑星 25143 には日本の探査機「ハヤブサ」により調査とサンプルリターンを行う予定であったために、JAXAの関係者が小惑星 25143の発見者であったアメリカの研究グループLINEARにお願いして「イトカワ」と命名してもらいました。小惑星探査機「イトカワ」に「ハヤブサ」と名付けたことについてJAXAは戦闘機(隼)と直接関連付けることについては否定していますが、命名の理由の一つではあるようです。
特別コラム
糸川英夫著−「中島の技術 ロケットにも」
アメリカのワシントンにスミソニアン博物館という有名な博物館がありますが、私の造りましたペンシルロケットに関する専用の展示室があるのです。ペンシルロケットは論理的に画期的なもので、現在のロケット理論そのものなのです。違うのは大きさだけなのです。残念ながら日本にはペンシルロケットの部屋を持っている博物館はないでしょう。日本の科学技術ですから、日本にあって良いはずですよね、その後のロケットでK(カッパー)、L(ラムダ)、M(ミュー)はご存知でしょう。これらのロケットには中島飛行機時代の科学技術が生きています。ハレー彗星やブラックホールの写真を撮ったのも日本のミューロケットが最初。そういうことを知らないし、知らせていないのです。
太田市編纂「銀翼遙か 中島飛行機50年目の証言」P60より。
平成22年12月19日国立科学博物館特別展「空と宇宙展−飛べ!100年の夢」より。小惑星探査機「はやぶさ」の実物大モデル
■更新について
一式戦闘機「隼」研究所は休日家族に叱られながら研究成果(?)を発表してまいりますので更新の遅さについてはご了承ください。また、誤った情報については後日修正して行きますので、これもまた、合わせて生暖かく見守っていただけるとありがたいです。
リンクが無い部分項目についてはこれから追加して行くことになりますし、既存の記述内容についても不十分ですので適宜追加・変更して行きますので何時の間にか変化がありますので、よろしくお願いいたします。
■更新情報(メジャーアップデート) 2014.05 日本の戦闘機の伝説のひとつに、戦闘機の配線において「物資不足により銅線に紙を巻いただけの電線であった。米軍は分厚いゴム被覆で被覆されていた、あるいは紙にペンキ云々」の表現がなされ、さも事実であるかのように流通しています。誤解です。是非、電機系構造をご覧下さい。 2014.04 ■主翼上面点検窓等を開始しました。標識燈の色の秘密についても解説しています。進行方向に向かって左翼側(左舷燈)が赤、右翼側(右舷燈)が緑であることが国際法で決められておりボーイングやエアバスでも常識ですが、十和田湖から引き上げられた一式双発高等練習機の色ガラスは赤と青でした。では、プラモデルでの一式戦闘機「隼」や零戦の右舷燈の緑は正しいのか、本当は青色ではないのか、そのナゾに迫る解説でモデラー必見です。 2014.02 ちょっと気になっていた発動機構造についても修正。■日本軍用機の発動機の系譜を追加しました。でも、ここはもう少しオリジナル内容を追加する予定です。■過給器(スーパーチャージャー)を修正。スーパーチャージャーのコンプレッサー用翼車の回転数は2万回転以上!をどうしても書きたくて。■ 発動機種類別性能比較表を追加。「栄10型説明書」、「栄20型説明書」の取説とは相違した事実が。でも、まだかなり省略して紹介しています。 2014.01 特別コラム 「戦闘機へ世界最初に航法用方向探知機(方位帰投装置)を搭載したのは一式戦闘機隼?」;一式戦闘機「隼」の作戦機にはDirection Finder、航法用方向探知機が実際に装備され戦地に配備されていました。計画及び試作機の完成時期より、戦闘機へ世界最初に方位帰投装置を搭載したのは一式戦闘機「隼」で有った。電気系構造をご覧下さい。 2013.11 ■空中射撃はアートか数学か、■空中射撃理論、■百式射撃照準器を使用した実際の空中射撃理論追加しました。是非ご覧下さい。でもまだまだ書き足りません。
2012.12 機体構造をちょっと置いて、気になっていた空中射撃術をアップデート。100式射撃照準器について追加解説。空中射撃術も奥が深くて当面終わりません。また、こんな状況にも係わらず製造工場の章の追加を予定。そのうち、紙ベースで電話帳になるなるような。
発動機構造の抜けていた過給機の章追加しました。2012.10 機体構造の部を開始。ムック本には書かれていない機体技術を中心に展開する予定です。ただし、機体のカラーリングについては、ムック本が特に力を入れている所ですので、申し訳がないため、ここで取り上げることは致しません。 2012.06 なぜか、発動機部分をアップデート。でも、まだまだ書かなくてはならないことが沢山あります。発動機は面白いですね。
2012.05 地道に電気系構造を中心に追記。砲関係ももっともっと手を入れたい。時間が経つと資料を掘り出すのが大変で、どこに入れたんだっけ?状態です。もちろん70年以上前の資料はケースに入れて大切に保管しているのですが、ケースの数がハンパなくワカラン状態なのです。
2011.01 書かなくてはならないことが沢山有り過ぎて困っています。地道に当時のオリジナル資料を中心にメンテナンス。
2010.12 レイアウト変更及び発動機部分をちょい足し。
2009.05 不定期にアップデート
2009.01 隼の武装について記述。
2008.09 フライトマニュアル未熟ながら完成。計器類のところで詳細に解説すべきところを書き過ぎていたりまします。
2008.08 一式戦「隼」フライトガイドの記載開始。旧漢字、旧カナ使いを訳すのは容易になっているのですが、こうやって文書にするのは以外と手間が掛ってしまうものです。完成までどのくらい掛ることやら
2008.08 サイトの全体構造をスケッチ。もっと項目が増えそうな予感が・・・とりあえずアップしながらサイト構造改訂して行きます。振り返って見ると日本陸軍航空隊の資料ばかりがなぜか集まってます。おかしい・・・。零戦から始まりガンダム世代なのですが。
2008.08 現在の日本を築いた基礎技術は戦前、特に戦中に花開いています。技術の粋である戦闘機を深堀すると、今までの見えてこなかった技術世界が見えてくるのでは、ということで、手持ちのオリジナル資料が比較的揃っている「隼」について、研究所という大層な名前で初めてみました。
エアワールド社「エアワールドJ&P No.1〜No3」“一式戦闘機「隼」生い立ちの真相」。オリジナルの資料群との合致度はJ&Pがバツグンです。大島さんありがとう!。 ところで、この更新情報は一通り完成すると終了となり、やがてイースター島のモアイ像みたいに本人が“あ〜そんなん作ったなあ”状態になるかもです。
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